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北の富士と玉乃島の対戦は、やっぱり凄かった

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    JUGEMテーマ:スポーツ

     

     

    力士の重量化で、面白い相撲が見られない最近の土俵・・みたいな記事を書きましたが、近年本当に減った場面は「外掛け・内掛け」「吊り出しの時の、吊られた相手が足をバタつかせる」と思います。秋場所は確かに熱戦は多かったわけですが、まだ物足りません。写真のような場面が見られないからです。

     

    写真はご存じの(?)46年以上前の、北の富士と玉乃島(当時)の横綱同時昇進時の本割と優勝決定戦です。

     

    本割での玉乃島の吊り出しに、北の富士は懸命に足をバタつかせていますね。決定戦での北の富士の外掛けに、玉乃島の髷が跳ね上がっているのがリアルです。

     

    この時期の大相撲の盛り上がりは本当に凄かったのですが、それは北の富士が圧倒的な強さで初優勝をしてから2年以上もの足踏みと、玉乃島が度々の準優勝ながらも綱取りに届かないという状況で、2大関に対するファンの思い入れが高まっていたことがあったと思います。

     

    豪栄道と稀勢の里にも、当時と共通する部分が多少はあるかもしれませんね。

     

     

     

     


    北の富士の脳震盪は昭和45年の「フックの花」&琴勇輝の声の元祖

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      大相撲秋場所12日目、解説はお馴染みの北の富士。琴勇輝の脳震盪のくだりにて、自身が一度だけ脳震盪を起こした話をしていました。

      詳しく訊こうとする吉田アナに、それ以上は話したくない記憶だという感じでした。その相撲は昭和45年初場所6日目、対福の花戦ですね。

      あの「フックの花」です。見事な右の張り手で、北の富士は一発KO。語りたくない記憶なのでしょう。しかしこの場所で、北の富士は14日目まで連勝。千秋楽の優勝決定戦で玉乃島を破り、3回目の優勝を果たします。

      思い出したくない記憶は、忘れられない横綱昇進を決めた場所でもありました。

      ところで、琴勇輝の声に関しても賛否両論あるでしょうが、昭和初期の名大関清水川は、相手を威嚇するような声を仕切りのときに発していたとの記録があります。

      もちろん清水川は「超」が付くほどの個性派大関だったようで、一平幕力士の引き合いに出すのは違うかもしれませんが。


       

      相撲人形のような廣川から大相撲観戦が始まりました

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        "北玉時代と北の富士・玉の海"というカテゴリーを作っているくらいですから
        北玉時代への相当な思い入れは、確かにあります。

        玉の海に関しては大鵬・北の湖・千代の富士・貴乃花と同等の実力者
        だったという書き方をブログではしていますが、玉の海ファンだったという
        意識は無く、一応客観的に書いているつもりです。

        むしろ北の富士を応援していた方で、デビューシングル「ネオン無情」は、
        当時私は小学校の低学年でしたが、購入しました。

        北の富士と玉の海(当時玉乃島)が関脇・小結で出世を競っていた、私が
        大相撲に興味を持ち始めた頃、一番のご贔屓力士が廣川でした。

        白黒テレビに映し出される色白の廣川は、眉と目元がくっきりとして
        おちょぼ口の、いかにも"お相撲さん"といった風情でした。

        相撲振りは徹底的な押し相撲。激しさという部分では、その10年後に
        登場した "突貫小僧" 富士桜ほどのインパクトはありませんでしたが、
        その押し相撲には、何か "純なモノ" を感じました。

        小気味の良い突き押しでしたが体格には恵まれず、相手を圧倒するまで
        の破壊力とは言えず、8勝7敗・7勝8敗が多い力士で、それでさらに応援
        する気持ちが強くなったような気がします。

        昭和39年夏場所に1度だけ小結に昇進していますが、残念ながらその
        場所の記憶ははっきりせず、もう1度小結になってほしいと願いながら
        昭和43年春場所後に十両へ陥落します。(ちょうど40年前ですね)

        十両はテレビ中継が無いため、中継が始まると電光掲示板の廣川の四股名
        の灯りが点いているのかどうか、気を揉んで見ていた記憶があります。

        それも結局5場所だけ、昭和44年初場所で廣川は引退します。当時、
        小学校2年生ながら、一種の空虚感を抱きました。北玉時代が実質的に
        スタートしたのは、この年の秋場所からです。

        北の富士の上手投げ、玉の海の吊り出しの美しさとともに、相撲人形の
        ようだと形容された廣川の土俵上の一つ一つの所作もまた、美しいもの
        でした。

        引退後は宮城野部屋を継承しましたが、平成元年に52歳の若さで亡く
        なります。もし存命でしたら、横綱白鵬入門時の、最初の師匠となって
        いたわけですが・・・。

        小結 廣川泰三   生年月日  昭和12年 5月28日
                    没年月日  平成 元年 6月19日

        北の富士と81人の力士〜敢闘相撲の前の山

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          九重親方の理事就任と貴乃花親方の審判部副部長昇格で、北の湖体制の
          相撲協会も変革の兆しを見せてほしいところです。

          うるさ型の元大関前の山の高田川親方も、理事経験者としては元長谷川の
          秀ノ山親方と並んで、最長老格となりました。

          同世代のライバル達がひしめいた北・玉時代。彼らが大関に昇進した頃、
          さらに次の世代として登場した前の山は、柏・鵬時代のバリバリの若手の
          ホープでした。

          柏・鵬はともに大型力士、追う北・玉が中型であったため、187センチで
          130キロの前の山には大きな期待がありました。

          筋肉質の見事な体で突っ張りが得意。当時としては珍しく、横綱の柏・鵬に
          対しても思い切り張り手をかましていました。

          突っ張り合いの後、組み止められても体力と若さで健闘し、前の山の横綱戦
          はいつも大熱戦。昭和44年春場所の中日、横綱柏戸との水入りの大相撲は
          敢闘力士のイメージを決定付ける、死力を尽くした展開の大相撲でした。

          昭和45年の夏・名古屋でそれぞれ12勝・13勝を上げて、ハイレベルの
          成績で大関に昇進します。優勝争いもハイレベルだった北・玉と大鵬のこの
          時代、北の富士と玉の海には連敗していますが、他の力士をほとんど圧倒
          しての好成績、横綱を狙える大関でした。

          しかし北の富士との稽古で右足を骨折して新大関場所を全休、全盛期の力を
          取り戻すことなく在位10場所で大関を陥落します。

          ちょうど輪島・貴ノ花・三重ノ海・大受という、さらに新しい世代が台頭、
          大型で豪快な相撲の前の山は、彼ら若手の相撲巧者達に徹底的に分が悪く、
          大関復帰はかないませんでした。

          引退後は一門の先輩、北の富士の九重部屋の近くで部屋を興していますが、
          10年前の理事選クーデターのときは、結果的には北の富士を退職に追い
          込む形となり、しかし昨年の "北の富士入門50周年記念興行" の大成功の
          影には高田川親方の尽力がありました。

          またスパルタ指導でも知られる高田川親方は新弟子時代に6回も脱走し、
          前相撲を3度取った経験の持ち主。

          闘志を剥き出しにした若手時代、ケガから立ち直れなかった大関時代、
          理事選のクーデターに新弟子時代の脱走。これほど人間味を感じさせる
          エピソードが多い人も珍しいでしょう。

          先場所新十両で健闘した玉鷲は、前の山の若手時代に風貌や体型・相撲振り
          がよく似ています。敢闘力士として熱戦を見せてくれそうです。


          元大関 前の山太郎  生年月日 昭和20年 3月9日

          北の富士と81人の力士〜錦洋を憶えていますか

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            若手力士の活躍が期待される、平成20年の大相撲。
            北玉時代の期待の若手力士といえば、真っ先に浮かぶのは18歳8ヶ月、
            当時の最年少記録で入幕した貴ノ花です。

            そして貴ノ花と同い年、19歳の若さで入幕した錦洋も注目されました。
            本名の川崎で十両優勝し、昭和44年名古屋場所で新入幕を果たした時、
            新しい四股名、”錦洋”は格好良い四股名だなあと思った記憶があります。

            176センチ、148キロの中アンコ型。
            おっつけて押していく正攻法の相撲、両差しになる巧さもありました。
            何よりその童顔が、変化や引き技が少ない取り口に似合っていました。

            昭和45年の春場所、20歳の錦洋は技能賞を獲得します。
            この場所は以前にも書きましたが、大鵬・北の富士・玉の海の3横綱が
            3人で40勝5敗という成績だった場所です。

            錦洋は前頭4枚目で9勝6敗。前半は上位対戦がなく、勝ち込んだ後半に
            横綱玉の海・大関琴桜に敗れますが、その善戦が認められての受賞でした。

            当時の技能賞は、業師の藤ノ川・栃東が常連。他にも若浪・陸奥嵐・二子岳
            などと、受賞者には個性的な曲者が多かった時代です。

            千秋楽、錦洋の技能賞が決まった時のアナウンサーの
            「正攻法の力士としては非常に珍しい、技能賞の受賞です」という言葉が
            妙に耳に残っています。

            20歳の童顔の力士。真面目一筋の押し相撲。
            アナウンサーの声にも、何か温かみのようなものを感じました。

            しかしその後、糖尿病の影響もあって力が発揮できず、翌場所の前頭筆頭
            が最高位となってしまいます。この技能賞も最初で最後の三賞でした。

            錦洋は鹿児島出身。井筒部屋で由緒ある、やはり鹿児島出身で大正時代の
            関脇だった錦洋の四股名を受け継いだものです。

            故郷に錦を飾る、童顔で真面目な雰囲気の錦洋には、本当にぴったりの
            四股名でした。

            1度十両に落ちた錦洋は、四股名を本名の川崎に戻します。
            同郷の元鶴ヶ嶺の君ヶ浜が部屋の後継問題で井筒から独立、錦洋は君ヶ浜
            とともに井筒部屋を離れます。

            そのためか再入幕を果たした時、やはり井筒ゆかりの錦洋は名乗らず、
            (名乗れず?)四股名は大峩となりました。高く険しい山を意味する大峩と
            いう四股名は、故郷への想いを感じる錦洋とはイメージが違いました。

            27歳の若さで引退した錦洋が、大峩という四股名で力士名鑑に載って
            いるのに、少しばかりの違和感と寂しさを、何故か覚えます。

            北の富士と81人の力士〜最も美しく負けた力士、高見山

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              大相撲史上最高の人気力士は誰かと問われれば、大関貴ノ花と答えても
              異論は少ないでしょうが、高見山も貴ノ花と並ぶほどの拍手を常に受けて
              いた力士でした。

              北・玉時代を彩った力士ということで、清国・大麒麟・長谷川・若見山と
              ライバルだった力士達を取り上げてきましたが、高見山は北・玉時代の
              土俵を語るうえで欠かせない力士です。

              引退場所は昭和59年夏場所ですから、北・玉時代が終わった後10年
              以上も現役として活躍、39歳11ヶ月まで相撲を取っていました。

              高見山の幕内在位97場所は、双葉山の69連勝・大鵬の優勝32回・千代
              の富士の通算1045勝と並ぶ、大相撲における大記録だと思います。

              192センチは当時の最長身、体重はピークで200キロを超えました
              が、若手の頃は160キロぐらいでしょう。それでも幕内でずば抜けて
              大きい力士でした。

              対戦成績は北の富士に7勝19敗、玉の海には2勝15敗と善戦健闘して
              いたとはいえない数字です。しかしその土俵には華がありました。

              北の富士が巨漢高見山に速攻相撲で圧倒すると、さすが横綱という感じ
              でしたが、玉の海ー高見山の印象の方が強烈に残っています。

              177センチの玉の海とは体格差が特に大きい高見山の、その負けっぷり
              が見事でした。玉の海の吊りに、これ以上は高く上がらないだろうと思う
              ぐらい足をバタつかせ吊り出された場面は、相撲の凄さを見せつけたもの
              でした。あの凄い吊り出しを見たから、今でも相撲を見ていると言っても
              いいかもしれません。

              牛若丸と呼ばれて一世を風靡した小兵藤ノ川の最高の名場面も、高見山を
              二枚蹴りで空中で一回転させた相撲でした。また、激しい投げの打合いで
              ”マゲが無けりゃあ力士じゃない”の貴ノ花の名言が今に伝えられる名勝負も
              相手が高見山だからこそ、バランスの美しさがあったと思います。

              高見山は美しく負けることによって(貴ノ花戦は勝っていますが)土俵に
              大輪の花を咲かせ、また力士の肉体の凄まじさを分かりやすく現してくれ
              ました。強靭な足腰の力士相手に、巨漢高見山が宙を舞っていた時代は、
              大相撲の面白さと美しさが際立っていた時代でした。

              高見山はヒザが固かったため関脇止まりだった、という論評を目にする
              ことがあります。しかし少し前に、昭和47年名古屋場所の高見山優勝時
              の映像を見ましたが、ヒザも充分に曲がり、腰を割った見事な相撲でした。
              28歳、全盛期の優勝でした。

              やがて体重増でもろさが目立つようになりますが、引退の2場所前まで
              幕内で踏ん張りました。時代は北・玉から輪・湖時代さえも超え、千代の
              富士時代となっていました。

              「2倍、2倍」のコマーシャルで大相撲を身近なものにし、少年ファンを
              増やした功績もあった高見山でした。

              北の富士と81人の力士〜大麒麟、昭和のパフォーマンス

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                高見盛や北桜のような派手なパフォーマンスは、昭和40年代頃は
                あまり見られませんでしたが、個性的な仕切りといえば、大麒麟が
                やはり一番に上げられるでしょう。

                大麒麟といえば柔軟な体が特徴ですが、その柔らかさをフルに生かし、
                塩をまいてから必要以上に左右の肩甲骨を揺さぶり、まるで肩の凝り
                をほぐしているような仕草。手を下ろすときも、亀が甲羅に引っ込む
                ように異常に首を縮め、上目づかいのしかめっ面で相手を睨みつけ、
                仕切りなおしで再度肩を奇妙に揺さぶる、この繰り返しです。

                いかにも曲者という雰囲気を持っていましたが、もともと大麒麟は
                曲者として世に出たといったところがありました。

                平幕で最初の上位対戦で、いきなり横綱柏戸から金星を上げます。
                昭和41年夏場所のことです。電車道の寄りが身上の柏戸にとって、
                柔らかな体で吊りと打っ棄りを得意としていた大麒麟(当時麒麟児)は
                嫌な相手だったでしょう。

                翌場所も連敗、一度五分に戻すもさらに3連敗、通算でも五分には
                戻せませんでした。土俵際あと一歩まで追い詰めて打っ棄られての
                逆転負けに、柏戸の悔しそうな表情と大麒麟のふてぶてしい面構え
                が好対照でした。大麒麟はライバル大鵬の弟弟子で、柏戸はよけい
                に負けたくない相手に負けていたわけです。

                北・玉時代、同世代の大関候補の中で、最も横綱になれる力士といわ
                れていたのは大麒麟でした。しかしライバル琴桜・清国に先を越され、
                さらに後から追いかけていた前の山にも、1場所早く大関に昇進され、
                それが面構えや動作のふてぶてしさとは真逆の、度胸の無さに原因が
                あったとも言われ、外見では分からないものだと感じます。

                柏戸と大麒麟は引退後、ともに審判部長を務めました。
                大麒麟に逆転され悔しそうにしていた、ちょっと人の良さそうな感じ
                の元柏戸の鏡山審判部長は、立合いの待ったに恐い顔で怒鳴りつける
                頑固な親方で、不適な表情で勝ち名乗りを受けていた元大麒麟の押尾川
                審判部長は、「只今の勝負の説明」のマイクパフォーマンスも噛み噛み
                で、最後まで慣れることが出来ませんでした。

                外見と性格は逆でも、現役時代のふてぶてしい曲者のイメージは強烈
                だった、北・玉時代の名脇役、大関大麒麟でした。

                        〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

                今年押尾川親方は定年のため、部屋は尾車部屋に吸収されました。
                独立のときの押尾川騒動と、現在の部屋乱立(?)の様相は隔世の感
                があります。

                北の富士と81人の力士〜最強の関脇、長谷川勝敏

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                  下位の頃に、”この力士は将来大関になれる”と期待されながら、大関
                  を逃した力士といえば、個人的には昨日ブログで書いた初代栃東や琴錦、
                  もちろんまだ可能性はありますが若の里の3人です。

                  その代表的存在が最強の関脇、元長谷川の秀ノ山親方でしょう。
                  長谷川は早い時期から、北の富士のライバルでした。

                  学年でいえば、長谷川は早生まれの北の富士よりも3つ年下です。
                  初土俵も3年と1場所も遅いのですが、北の富士より1場所早く、18歳で
                  関取になっています。幕下時代の2人が並んだ写真を載せている相撲誌が
                  手許にありますが、はるかに長谷川の方が貫禄があります。

                  長谷川は極めつけの有望力士でした。兄弟子琴桜との稽古で足首を
                  骨折して一度幕下に落ちたため入幕は遅くなりましたが、それでも20歳
                  で新入幕を果たします。

                  新入幕から5場所連続勝ち越しで小結へ、このときすでに大関候補と呼ば
                  れています。左四つからの力強い相撲を取りました。

                  184センチ、127キロの体は、大関昇進当時の北の富士とほぼ同じ
                  大きさです。スピードの北の富士に対して、組み止めての長谷川でした。

                  北の富士ー長谷川の対戦成績は北の富士の30勝16敗と、2倍近い差が
                  ついています。しかし何故か、北の富士は長谷川を苦手にしていた記憶が
                  あるのです。スピード出世だった長谷川が、当初圧倒していたというわけ
                  ではありません。

                  北の富士は昭和42年春場所に初優勝、昭和44年秋場所から準優勝・優勝
                  優勝で横綱に昇進しますが、昭和42年夏から昭和44年名古屋までの間は
                  低迷しています。この14場所で勝ち星は126個、平均9,0勝という文字
                  通りのクンロク大関でした。

                  この14場所に限れば、2人の対戦成績は長谷川の8勝6敗。がっぷり四つ
                  になれば長谷川の相撲で、北の富士が軽く見え、どっちが大関か分からない
                  ような感じでした。当時横綱を期待されていた北の富士の低迷振りを、強く
                  印象付ける取組でした。この期間が、北の富士は長谷川が苦手という記憶に
                  なっているのでしょう。

                  北の富士が130キロを超え、突っ張りや出足の威力が増すと長谷川は
                  勝てなくなりました。長谷川に最も勢いがあったのは、新関脇から連続
                  7場所勝ち越した頃。そして8場所目が昨日のブログでも書いた、昭和
                  45年春場所、北の富士・玉の海・大鵬が3人で40勝5敗だった場所
                  です。横綱リーグ以外での、3人合計でたったの2個の黒星のうち、1個
                  は長谷川が上げたものです。それでも負け越しました。

                  この場所から始まる濃密な北・玉時代に、長谷川は連続で勝ち越せなく
                  なります。北・玉時代終焉後の昭和47年春場所、前場所に関脇で準優勝
                  の長谷川は初優勝を果たします。この成績で大関を見送りられた長谷川に
                  2度とチャンスは来ませんでした。このとき長谷川27歳。翌場所の大関
                  挑戦は8勝で終わり、入れ替わるように輪島と貴ノ花がこの場所、三役で
                  12勝と11勝。3場所後には2人同時の大関昇進でした。

                  その左四つの力感溢れる相撲、特に掬い投げや巻き落としなど、差し手
                  からの技は堂々としたものでした。

                  タイミングこそ外しましたが、やはり大相撲史に残る最強関脇です。

                   

                   

                  砂かぶりの夜が独自ドメインでなくなって失礼しております。

                  長谷川に関する記事は、私の新しいブログ

                  大相撲になりました!最強の力士=長谷川の記事

                  にても、ご覧いただけます。宜しくお願いします。


                  北の富士と81人の力士〜清国忠雄

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                    新入幕の北の富士が13勝2敗の好成績を上げた昭和39年の初場所、
                    入幕2場所目の清国は14勝1敗、それも初日から14個の勝ち星を
                    並べ、千秋楽まで横綱大鵬と優勝を争います。

                    当時は下位の力士がいくら勝ち込んでも、役力士と割を組まれること
                    は少なく、やっと千秋楽に東関脇の大豪に当たり全勝は逃しましたが、
                    全勝優勝の大鵬と清国は同期生、かたや横綱とこなた前頭13枚目の
                    優勝決定戦となるところでした。

                    このとき22歳の清国と21歳の北の富士は、柏鵬全盛時代の次期
                    大関候補として玉の海(当時玉乃島)・琴桜・大豪・明武谷・長谷川
                    若見山・大麒麟(当時麒麟児)といった精鋭達とのライバルレースの
                    主役となりました。

                    武蔵丸ー貴ノ浪に破られるまで、北の富士ー清国は最多対戦の取組
                    として長く記録に残っていました。対戦成績こそ北の富士の37勝15敗
                    とかなり差は開いていましたが、同時期に出世を競い合った間違いなく
                    ライバルだったと言えるでしょう。

                    北の富士と清国はある意味、対照的でした。

                    清国といえば、土俵上の所作に気品が溢れていたことで有名です。
                    穏やかで静寂ささえ感じる塩まき。見事に腰を割った仕切りから、
                    相手の目を見ながら本当にゆっくりと、呼吸を合わせるように手を
                    下ろしました。体の内側から、そっと下ろすその手の動きは優雅と
                    いえるほどでした。

                    北の富士の塩まきは、その後千代の富士から千代大海へと弟子に伝承
                    された手の甲を上に向ける、長嶋茂雄の一塁送球のようなあの独特の
                    スタイルです。また塩を取るときも、どの力士も塩に正対しているのに、
                    北の富士だけは右足を一歩出して半身になって塩を取りました。
                    そして眉を寄せ下唇を尖らす、闘志満々の表情。

                    北の富士は甘いマスクで有名でしたが、清国も美男大関と呼ばれて
                    いました。北の富士には華やかな雰囲気がありましたが、清国の方
                    は純日本的で切れ長の目に鼻筋の通った色白の美男力士でした。

                    大関レースは3年近く北の富士に遅れることになりましたが、新大関
                    で迎えた昭和44年名古屋場所、千秋楽で同期生の大鵬を破って優勝
                    決定戦に進出。決定戦で藤ノ川を破り優勝します。

                    この場所で柏戸がついに引退。8年近く続いた柏鵬時代は終止符を
                    打ち、大鵬の1人横綱、清国の横綱挑戦に期待が集まりました。

                    初土俵からちょうど13年、はるか先を走っていた同期の大鵬の
                    背中が手の届くところまで来たのです。

                    大鵬、そして北の富士・玉の海の常に後塵を拝してきた清国に最大
                    のチャンスが訪れた翌秋場所の2日目、麒麟児戦で首を痛め、最大
                    のチャンスを逃します。この場所から奮起した北の富士と玉の海は、
                    3場所後に横綱へ昇進しました。

                    北玉には弱かったものの、大関昇進後2年間はほぼ毎場所中盤まで
                    は全勝や悪くても2敗、地味ながらも場所を盛り上げ、それが後年
                    名大関と呼ばれる所以だったのでしょう。右おっつけを中心に堅実で
                    キレイな相撲を取りました。

                    親方としては実績を残せませんでしたが、その伊勢ヶ浜部屋も再興
                    され名門復活、大相撲ファンにとっては嬉しいニュースです。

                    北の富士と81人の力士〜若見山幸平

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                      今年の大相撲は安馬を初め、大関候補の力士が徐々に頭角を現し
                      つつあります。北の富士と玉の海が登場したときも、将来の大関候補
                      たちが、ほぼ同時に出世を競った時代でした。

                      若見山は昭和39年初場所、北の富士とともに新入幕を果たします。
                      引退後3ヶ月で協会を離れていますし、今では大相撲ファンの記憶に
                      あまり残っていない力士かもしれません。

                      若見山は入幕してすぐ「若手三羽ガラス」と呼ばれ、期待されます。
                      1場所早く入幕した22歳の清国、同時入幕の21歳の北の富士と
                      並び、20歳だった若見山は飛び切り注目の新鋭でした。

                      昭和39年初場所、2場所目の清国が14勝、北の富士が13勝、
                      若見山は10勝の大活躍。ちなみに、前の場所に十両で全勝優勝の
                      北の富士がこの場所で2敗した相手は清国と若見山でした。

                      3人のライバルの出世レースが始まりました。

                      若見山は177センチで180キロの超アンコ型。
                      150キロを超える力士が珍しかった当時、ずば抜けた巨体を誇り、
                      三役でも勝ち越して大関候補となります。

                      左四つでがっぷりよりも速攻に徹する北の富士とは対照的、右四つ
                      で引っ張り込むように四つに組もうとする、重い腰の若見山。
                      2人は極端に取り口が違いました。

                      入幕時の北の富士は、まだまだ細身の体。当初は若見山が対戦成績
                      で圧倒します。

                      力関係が逆転するのは昭和40年の秋と九州、この2場所だけ若見山
                      は三役で勝ち越します。秋は西小結で8勝、九州は西関脇で9勝。

                      しかし北の富士は、秋は東の小結で10勝、九州は東の関脇で9勝。
                      2場所とも千秋楽に対戦し、北の富士が若見山に勝っています。
                      以後、北の富士が対戦成績で圧倒することとなります。

                      北の富士は東の関脇を守ったまま大関に昇進、翌場所に関脇から陥落
                      した若見山は巨体を生かしきれず、その後三役に復帰することはあり
                      ませんでした。

                      まさにライバルレースに決着をつける2場所となりました。
                      2人にとって、大きな2勝、大きな2敗でした。

                      北の富士・若見山より1場所遅れて入幕した玉の海(当時玉乃島)は
                      若見山と同じ177センチ。若手時代、180キロの若見山に対して
                      100キロ足らずの玉の海は右四つがっぷりで挑みます。

                      水入りの大相撲のすえ、玉の海は約2倍の重さの若見山を寄り切りで
                      破ります。軽量ながら、どんな相手に対してもがっぷりに組んでいく
                      将来の玉の海の相撲の片鱗が見られたと同時に、当時の相撲評論家を
                      あきれさせた一番でした。

                      そして北の富士が2度目の優勝を果たし、翌初場所後の玉の海との
                      同時横綱昇進への足掛かりとなった昭和44年九州場所、若見山は
                      ひっそりと引退します。まだ26歳でした。

                      北の富士と戦った81人の力士

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                        このブログはサブタイトルが、”大相撲が「大相撲」と呼ぶにふさわ
                        しかった時代の感動の記憶”としています。

                        個人的に一番記憶に残っているのは、北玉時代です。
                        そして、その時代を彩った力士たちとの「大相撲」の数々。

                        改めて言うまでもなく、北玉時代は未完のうちに終焉を迎えました。
                        そのために、尚のこと記憶が鮮明なのかもしれません。

                        玉の海と、ほぼ時を同じくしてプロボクシングの世界チャンピオン、
                        大場政夫が不慮の死を遂げました。

                        玉の海と同様に、見るものの体をふるわせるような感動的な戦いを
                        やってのけ、さらに輝きを増そうとしていた矢先の突然の死でした。

                        そのスリリングなファイトスタイルは忘れられません。

                        大場の死後、ボクシングで感動したのは輪島功一が2度目のタイトル
                        奪還に成功した柳済斗戦ぐらいでしょうか。

                        特にフライ級の試合は、大場政夫を基準にすると物足りなく、やがて
                        ボクシングを見る機会も減ってしまいました。

                        北玉時代もまた未完ゆえに、その名勝負の数々が深く脳裏に刻み込ま
                        れています。

                        2人の共通点は大関だった期間が長く、なかなか大鵬の壁を破れず、
                        しかし、そのために横綱に昇進したときの相撲ファンの思い入れも
                        むしろ大きくなっていたというところです。

                        そしてもう一つの共通点は得意の決まり手、北の富士の上手投げと
                        外掛け、玉の海の吊り出しと寄り切り、が美しかったところです。

                        美しさという点では、大場政夫以後のボクシングと似た感覚があり
                        ます。朝青龍が圧倒的な強さを見せていた平成17年でも、物足り
                        なさを感じていたのは、相撲の美しさにおいてでした。

                        北の富士は64場所の幕内在位で81人の力士と、玉の海は46場所
                        の幕内在位で77人の力士と戦いました。

                        その力士たちを、記憶の隅から引っ張り出そうと思っております。
                        少しずつですね・・・。

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