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大麒麟の仕切りには、緊張感と美がありました

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    元大関大麒麟、堤隆能さんが亡くなられました。
    謹んでご冥福をお祈りいたします。

    大関大麒麟は柏鵬時代から北玉時代に掛けて「横綱になれる大関」と
    言われた名力士でした。

    柔らかな足腰と低い重心を利した相撲は、たぶん今の土俵で最も
    見られないスタイルの相撲と言っても過言では無いでしょう。

    その独特の仕切りでも有名でした。もう3年ぐらい前になりますが、
    “大麒麟、昭和のパフォーマンス”と題した記事を書きました。
    記事の方は⇒こちらから

    ここで先日の“大相撲生中継中止”に関してつながってくるのですが、
    仕切りを省いたダイジェストは、やはり別物。

    大相撲にとって仕切りは当然重要なもので、それが全編見ることが
    出来なかったことだけでも大相撲中継中止は残念でした。

    大麒麟の時代の仕切りに思いを馳せると、仕切りで両手をつくウンヌンに
    重きを置くような言説に、またも一言という気になります。

    両手をきちんとついても、気が入ってない仕切りは「ダメなもんは
    ダメじゃ」ということです。

    大麒麟の時代の仕切り、そして立合いには、最高の“緊張感と美”が
    ありましたね。


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    花田勝氏結婚で、本日は初代若乃花と貴ノ花のお話

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      花田勝氏が結婚とのこと。
      これは花田氏の伯父、「土俵の鬼」初代若乃花の50年ほど前の
      写真です。

      179センチ・105キロの体で、堂々の横綱相撲です。
      今なら、もっと頭をつけろ、廻しを浅くしろと怒られそうです。

      初代若乃花の猛稽古は有名でした。そして稽古によって自然に
      身に付けたものが本当の型・得意技と語っています。

      だからこそ、どんな大型力士が相手でも自分の相撲を貫いたのでしょう。



      こちらはご存知、若貴のお父さん、名大関貴ノ花の仕切り直しの
      おなじみにのポーズ。闘志に溢れてます。

      今見ても、格好良いですね。


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      昭和の名力士、栃錦と立合い

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        大相撲史上もっとも気迫に溢れる立合いで、対戦相手を恐れさせた力士、
        その代表的な力士として横綱栃錦が、まず上げられるでしょう。

        私が生まれたのは昭和35年6月ですが、栃錦が引退したのは昭和35年
        5月、生でその相撲を見ることは出来ませんでした。

        しかしその表情から子供心に、「厳しい人だろうなあ」とテレビや雑誌を
        通じて感じていた記憶があります。

        昨今の立合いの乱れについて、大先輩の大相撲ファンの方からメールを
        いただいたことがきっかけで、色々なDVDを見ました。

        その中で、栃錦の立合いの凄さを改めて知ることになりました。
        深々と見事に腰を割り、鬼気迫る眼光で相手を睨みながら、両手を外側から
        持ってくる、威圧するような大きい仕切りです。

        90キロに満たない体重で大関を張ったのは、今と時代が違うとは言え
        ません。東富士・照国・吉葉山・鏡里・大内山・松登等々、大型力士や巨漢
        力士が当時も大勢いたからです。

        立合いの乱れについて、大横綱双葉山の時代と比較して、よく語られます。
        比較されるのは、この昭和20年代中盤以降の時代です。

        戦後、大相撲は興行として成り立つのだろうかと危惧された時代。
        そしてテレビ中継により、仕切り時間との兼ね合いも出てきました。

        その中で、若手時代には両手をついていた栃錦の立合いも、変化していき
        ます。大相撲は興行である以上、観客優先。テレビであれば視聴者優先と
        いうことでしょう。

        大相撲の存続、シンプルに言えば力士が相撲で食べていけるのか、という
        危機感の中でのこと、立合いの手つきについて、後の時代の人間が言及する
        のも、難しい部分があると思います。

        小兵横綱にありがちな、待ったが多かった栃錦。やがて克服し、逆に
        待ったをしない横綱となります。どんな体勢でも立とうと心掛けた部分と、
        微妙な手つきの関係性もあるでしょう。

        昭和59年秋場所、手をつかない立合いは認めないという厳しい方針を
        打ち出したのも栃錦、当時の春日野理事長でした。

        栃錦の幕内500勝が大記録と言われましたが、年6場所制により記録の
        比較は栃若時代が1つの区切りとなりました。その年6場所制も今年で50年
        ですね。

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        大相撲、昭和の名大関〜私と同年代だった北天佑

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          早いもので北天佑が亡くなってから、もうすぐ2年になります。私と同じ
          昭和35年生まれ、45歳の若さでした。

          初めて北天佑をテレビで見たのは、入幕直前か新入幕場所のどちらかです。
          それも当時から"横綱を期待されている"という紹介のされ方でした。

          大相撲中継の一場面、それも期待の若手紹介という小さなコーナーが今でも
          印象に残っているのは不思議です。

          四股名の由来も、そのときの放送で語られていました。本当に期待の大きな
          若手力士だと、その由来から感じました。28年前のことです。

          183センチ・139キロ、入幕当時はもう少し細かったと思いますが、
          肩幅広く重心の低い、見事な筋肉質の体をしていました。

          新入幕の昭和55年九州場所は、横綱輪島が最後の優勝を果たした場所
          です。長かった輪湖時代が終わりを告げる前夜、新しいヒーローを大相撲
          ファンは期待していました。

          兄弟子北の湖は仏頂面で筋肉質ながらアンコ型、対照的に格好良い北天佑
          は次の時代を背負う存在というイメージでした。

          立合いに強烈なノド輪で圧倒し、右四つ左上手を引けば、豪快な吊りと投げ
          がある、"横綱相撲"を若い頃から取っていました。

          翌昭和56年初場所は千代の富士の初優勝の場所。25歳の千代の富士と
          20歳の北天佑、2人の格好良くて強い力士の登場に大相撲ファンは歓喜
          しました。

          両雄が並び立つイメージを描いていたものの、ケガもあって千代の富士に
          完全に差をつけられます。

          晩年は自身の無さか、立合いに頭を下げて、前ミツ狙いの相撲を見せる
          こともあり、元気な頃の"横綱相撲"は影を潜めます。

          当時の解説、玉ノ海さんや神風さんに「相撲が小さい」と酷評されていた
          ことが、しばしばでした。

          その優しそうな風貌同様に、実際に優しさを感じさせた力士で、それが
          横綱を逃した一因かもしれません。

          入幕と千代の富士の大ブレークが同時期だったのも、その後の千代の富士
          との関係を考えると因縁めいていました。

          そして同じ昭和35年の、ある2人の力士とも因縁めいたものを感じます。
          私と同世代の3人の力士の関係を、また次回に。


          大関、北天佑勝彦   生年月日 昭和35年 8月 8日
                        没年月日 平成18年 6月23日

          相撲博士、ハンマーで打ち固めると相撲の神様

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            昭和の名大関旭国は、言うまでもなく親方としても一級親方です。昨年、
            大相撲を取り巻く数々の問題が起こったとき、常に厳しい姿勢を取り続けた
            元旭国の大島親方への信頼は、ブログやメルマガで何度か取り上げました。

            元大関貴ノ花の二子山親方と元横綱三重ノ海の武蔵川親方は、その全盛
            時代を築きましたが、大島親方の実績も負けてはいません。

            現役時代、"タカちゃん" "ピラちゃん" "ゴロちゃん" と呼び合う親友同士
            だった3人は、力士としてもライバル同士、そして親方としても大きな功績
            を残しました。

            ("ピラニア"旭国は"ピラちゃん"なのに、"プリンス"貴ノ花は"プリちゃん"
             ではなく"タカちゃん"でした)

            旭富士を横綱にまで育てました。柔らかい体の大型力士で相撲が巧い旭富士
            は、そのイメージだけで稽古嫌いとマスコミから呼ばれましたが、その出世の
            プロセスをきちんと見れば、稽古をしていないわけがありません。

            そして、伊勢ヶ濱部屋から安馬・安美錦といった力士が育つわけがあり
            ません。

            大島部屋は現在、幕下の旭秀鵬とまだ序二段ですが旭大星と有望力士がおり
            これからも名伯楽振りを発揮してほしいものです。

            現役時代の旭国は174センチ・120キロの小兵大関、ニックネームは
            "相撲博士" "ピラニア"。今、当時の映像を見てみて、まず驚くのは技巧派
            だった旭国が見事な筋肉質の、実に力強い体をしていたところです。

            昭和40〜50年代前半ですから、まさに四股とテッポウと申し合いで鍛えた
            体です。

            しかしそれに輪を掛けるような話ですが、当時の相撲誌を読んでいると、
            大正から昭和にかけて活躍し、"相撲の神様" と謳われた大関大ノ里の体
            を、"旭国の体をハンマーで打ち固めたような体"と記してあります。

            大ノ里は164センチ・97キロの体で、丸7年大関を張っていました。
            "相撲博士"よりも"相撲の神様"は、もっと凄い体をしていたのでしょう。

            そのニックネームどおり理詰めの相撲を見せましたが、旭国の特筆すべき
            ところはその守備力でしょう。淡白な相撲を見せられて、必ず考えるのは、
            旭国のような力士が今の土俵に現われないかな、ということです。

            単純に言うと、旭国は見ていて面白い相撲を取りました。そして同様に
            面白い相撲を見せる双璧が貴ノ花でした。

            昭和50年秋場所12日目、両者の2分をはるかに超える大熱戦は、多分
            私が今までに見た相撲の中でベスト5には入るでしょう。

            2分を超える大相撲ながら、動きが止まることはほとんど無く、また両者
            ともに絶体絶命の場面を何度も切り抜ける、壮絶な勝負となりました。

            旭国は昭和53年春場所にも、魁傑と"世紀の大相撲"を展開し、NHKの
            中継を20分延長させ、2番組を飛ばすという離れ業も演じています。

            旭国はその信条を "簡単に手を付かない、簡単に土俵を割らない" と語って
            います。"簡単に" 実行できることではありません。

            大関 旭国斗雄  生年月日  昭和22年 4月25日

            相撲界の紳士〜名大関栃光、そして豪栄道

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              昭和41年初場所に引退した大関栃光は、昭和40年頃からの記憶しか無い
              私にとって、強い大関というイメージではない力士でした。

              栃光について語られるのは、土俵マナーの良さ、真面目、稽古熱心、そして
              ニックネームは "べコ(牛)"、"相撲界の紳士" とも呼ばれ、その物静かな
              表情が印象に残っていました。

              しかし、実際にDVDで昭和30年代の栃光の相撲を見てみると、予想して
              いた相撲とはまったく違うものでした。

              左四つからの寄りと上手投げの正攻法の力士ですが、闘志に溢れた表情から
              がむしゃらな寄りと、かなり強引な上手投げ。それも決まるまで連発で仕掛ける
              強気なもので、土俵狭しと攻防を展開する激しい相撲でした。

              四つになるまでの前哨戦も凄まじく、突きにハズ押し・おっつけがまた見事で
              決して大きくない体で、正攻法で大型の柏鵬全盛時代に大関を張っていたの
              も納得します。

              176センチ・128キロの栃光の相撲を見ていて、しばらくして豪栄道に
              よく似ていることに気が付きました。

              時代は違いますが、豪栄道はちょうど栃光を1回り大きくしたような、
              そっくりの体型をしています。肉の付き方も似ているようです。

              左四つから、少し強引な引きずるような上手投げ、上手を取る位置も似て
              います。ただ前哨戦の激しい突き押しは、豪栄道には無いものです。

              もちろん右四つ得意の豪栄道が、左四つの栃光に似ているというのも変な
              話ですが、現在右四つの豪栄道の相撲が多少消化不良気味に感じるのも
              事実で、むしろ右四つのときの方が、激しさや強引さが足りないような気が
              します。

              一番の違いは、普段おとなしい表情の栃光の凄まじい突き押しです。
              その突き押しから四つ相撲に展開する流れは、よどみが無くて素晴らしい
              ものです。

              両手で前廻しを探る、現在の豪栄道の立合いとは当たりの強さ、激しさが、
              これは似ている部分が1つもありません。

              最近白鵬が、目標とする双葉山のDVDをよく見ているということです。
              昔は良かったとばかりは言うつもりもありませんが、参考にする部分は多い
              と思います。

              昭和40年頃、強いイメージは無かったというものの、引退間際の栃光は
              当時若手のホープとして注目されていた関脇・小結の北の富士には3勝1敗、
              玉乃島(後の玉の海)には3連勝して土俵を去ります。

              物静かな表情や態度とは裏腹に、大関としての意地とプライドは相当な
              ものだったのでしょう。

              名横綱であり、親方としても偉大だった師匠の栃木山、兄弟子の栃錦
              のような活躍を引退後も期待されながら、43歳の若さで亡くなったのは
              惜しまれるものでした。

              大関 栃光正之  生年月日  昭和 8年 8月29日
                          没年月日  昭和52年 3月28日

              千秋楽相星決戦、あの場所の隆の里が一番強かったかも

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                朝青龍ー白鵬の2場所連続の千秋楽相星決戦で、引き合いに出されるのは
                千代の富士ー隆の里、昭和58年名古屋から昭和59年初場所までの4場所
                連続の千秋楽相星決戦でしょう。

                最も強烈な印象が残っているのは昭和58年秋場所の全勝対決、新横綱の
                隆の里が全勝優勝を果たした場所です。

                優勝回数は4回の隆の里ですが、1場所限定の強さの記憶で言えば、この
                場所の隆の里ほど凄まじい強さを、大相撲ファンの脳裏に刻み付けた横綱
                はいないのではないか、と思わせるものでした。

                隆の里は千代の富士とともに、ウェイトトレーニングを稽古に取り入れた
                最初の力士として知られています。

                何度か書いていますが、私はウェイトトレーニングに対しては疑問に感じる
                部分があります。

                1つは、特に重量力士はウェイトトレによって、下半身より上半身の方が
                より発達すれば、攻撃力は増しても前に落ちやすくなるという危惧があり、
                淡白な相撲が増えるのではという心配です。
                (もちろん科学的に計画すれば、下半身も同様に鍛えることは可能ですが)

                2つ目は、筋肉が必要以上に張ることによる肉離れと、筋肉の柔軟性が減る
                ことによる受身のときのケガの増加の心配です。

                過去の例を見る限り、千代の富士・霧島・寺尾といった細身の力士には成功例
                が多く、(千代の富士は腕立て伏せも有名ですが) たぶんこれは科学的にも根拠
                があることだと考えられます。

                まだ前頭を上下していた頃、隆の里は糖尿病の影響もあって、比較的細身で
                筋肉質の力士でした。ウェイトトレの成果が理想的に現われた典型で、誰もが
                あてはまるとは言えないでしょうが。

                それにしても182センチ・159キロの体は、特に上半身の発達振りは空前
                絶後でした。昭和58年秋場所、隆の里の怪力を利した右四つの安定した
                相撲は、他の力士(千代の富士も含め)とは次元が違う強さでした。

                上半身の盛り上がりは目を見張るものでしたが、それ以上に注目すべきは
                下半身の備え、特に充分に腰が割れた立合いは出色のものでした。

                小さくて鋭い、そして安定感のある立合いだった隆の里。皮肉にも弟子
                の若の里は物凄い体当たりを見せたかと思えば、すぐに腰が伸びたりと、
                立合いで苦労しています。稀勢の里の立合いもまだ安定していません。

                現役時の隆の里と、現在の鳴戸親方の弟子たちとのギャップ。これは昭和
                59年秋場所からの、立合いの手付きの見直しも影響しているかもしれません。
                蔵前国技館最後の場所から実施された、両手付きの徹底化です。

                隆の里はケガのため、この場所を含め、皆勤2場所で引退します。
                いわば、北の湖とともに中腰立合い時代の最後の横綱です。

                大きな改変でしたが、中腰時代とはいっても充分に腰を割った、師匠隆の里
                の立合いを、稀勢の里あたりは早く身に付けてほしいと思います。

                横綱 隆の里俊英   生年月日  昭和27年 9月29日

                今の土俵に登場してほしいタイプは、名大関北葉山

                0
                  私が大相撲に興味を持ったのは昭和30年代後半なのですが、さすがに記憶
                  に残っているとなると昭和40年頃からです。

                  173センチ・119キロの体で大関を張った北葉山は昭和41年の夏場所
                  で引退しています。最後の6場所中4場所で負け越し、勝ち越した場所も
                  8勝7敗。当然強かったイメージは残っていません。

                  幼少の目には、老け顔(失礼)で円らな瞳と天然パーマのもみあげ、少しオバ
                  サンっぽい(これも失礼)風貌で強そうには見えませんでした。

                  体が小さくて大関を張ったというのは、40年以上も昔のことだからという
                  ことでは片付きません。当時の王者大鵬は、白鵬と同じぐらいの体躯ですし
                  柏戸や豊山もほぼ同サイズ。幕内最低身力士の海乃山で172センチ、体重
                  は120キロありましたから、北葉山は当時でも小兵中の小兵力士。

                  北葉山の得意技は打っ棄りでした。もちろん逆転技だけで通用するわけ
                  はありません。強い寄りと吊りがあって、その引き付け合いの攻防のすえ
                  に打っ棄りがあるわけです。

                  今DVDで見る北葉山の相撲は見事です。大型の柏鵬に対しては、前ミツ
                  を引いて頭を着けますが、出し投げで崩すよりも吊り寄りで攻める、堂々
                  とした大関の相撲を取っています。

                  前ミツで頭を着ける体勢も、例えば今の土俵で言えば朝赤龍でしょうが、
                  朝赤龍のように思い切り腰を引いて、出し投げで攻める相撲とは違って、
                  (朝赤龍は良い力士です。スタイルが違うということだけです) 北葉山は
                  相手のアゴに頭を着けると、朝赤龍よりも半歩か1歩ほど踏み込み、相手
                  の上体を浮かせます。そこから吊り寄りで攻め込む、正攻法です。

                  根性の大関と呼ばれた北葉山に対して、同時代に闘魂の横綱と呼ばれた
                  のは佐田の山。この両者が優勝を競った相撲は土俵際での攻防の連続で、
                  DVDで見ても凄い一番でした。昭和38年名古屋場所、北葉山優勝の場所
                  です。

                  意外に感じるのは、その3年前の昭和35年に名横綱栃錦が引退したとき
                  の新聞のコラムに、こんなクダリがあります。"北葉山の横綱にはまだ間が
                  あるし、大鵬は海のものとも山のものとも分からない"。 当時入幕して1年
                  と半年、まだ関脇だった北葉山は小兵ながら大きな期待を掛けられていた
                  わけです。栃・若がともに大きな力士では無かったからでしょうか。

                  打っ棄りを用心されると、反対側に大逆手を決めるという相撲は、現在の
                  土俵に登場すれば大喝采間違い無しの名大関でした。


                  元大関 北葉山英俊    生年月日  昭和10年 5月17日


                  しばらくキーワードの検索機能の調整を怠って、不具合になっていたと
                  思います。調整しましたので、"あの力士この技" など昭和の名力士を
                  色々と検索してください。

                  女性の相撲ファンに一番人気だった放駒親方は豊真将に似ていた

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                    元大関魁傑の放駒親方も60歳になりました。女性ファン、特に女子高生に
                    絶大な人気を誇った名力士です。

                    豊真将が本名の山本で三段目で優勝したとき、雰囲気が魁傑に似ているなと
                    思いました。出身地が同じ山口県ということで、魁傑2世が現れたと勝手に決め
                    込みました。ただ豊真将の方が二枚目ではあります。

                    魁傑は飛び切りの有望力士でした。ほぼ同時に競い合ったのが、輪島・貴ノ花
                    三重ノ海です。4人で関脇を張ったこともあります。

                    関脇で輪島が12勝で優勝、同じく関脇で三重ノ海が9勝、ともに小結で
                    貴ノ花と魁傑が11勝。当然、翌場所は4人とも関脇でした。ちなみに、
                    長谷川も関脇で勝ち越していましたので、翌場所の関脇は5人いました。

                    この場所、昭和47年夏場所は北の湖が幕内で初めて勝ち越した場所でも
                    あります。新しい時代の魁傑はまさに花形力士でした。

                    188センチ・128キロの浅黒い筋肉質のりっぱな体。同時代で横綱になった 輪島が186センチ・132キロ、二代目若乃花が186センチ・129キロ。

                    遜色の無い体格でしたが、魁傑は足が長く重心の高い力士で、その点では
                    決して素質に恵まれた力士ではありませんでした。

                    それでも強烈な突っ張りと柔道仕込の鮮やかな内掛けなど、スリリングな相撲
                    で人気を博します。悪役横綱北の湖を優勝決定戦で一気に突き出して、初優勝
                    を決めたときの大歓声は凄いものでした。

                    横綱も期待されましたが、内臓疾患のため最初の大関は在位5場所で陥落。
                    14勝1敗で2度目の優勝を果たし、7場所かけて大関に返り咲きますが、
                    今度 はヒジの故障で4場所で陥落します。

                    それにしても、大相撲史上一番の人気力士といっても過言ではない貴ノ花や
                    甘いマスクで一時は貴ノ花を超える人気を誇った二代目若乃花をしても、女性
                    ファンの支持という面では魁傑に及ばなかったのです。

                    爽やかで礼儀正しい土俵態度、不運の中で大関を陥落しても、その姿勢は
                    まったく変わりませんでした。

                    今、その土俵態度には魁傑を想起させるような豊真将ですが、魁傑の凄ま
                    じかった人気には、背景にあるドラマもあったからです。

                    豊真将は確かに今、多くの歓声と拍手をもらっていますが、これからの土俵
                    で新たなドラマを展開して、真の花形力士へと成長してほしいものです。



                    力士の凄さを感じさせた、大関大内山平吉

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                      昭和30年前後の土俵を盛り上げた大関、大内山。
                      私は残念ながら、現役時代の勇姿を見ることは出来ませんでした。

                      しかしある意味で、最初に凄いと感じた力士は大内山だったような
                      気がします。

                      大相撲中継を見るようになって、当時のテレビ画面で最初に目に入る
                      のは、向正面に座っている勝負検査役の元大内山の立田山親方、その
                      遠近法を無視した巨大な上半身でした。

                      当時の検査役は元大関汐ノ海の出来山、元関脇羽島山の松ヶ根といった
                      現役時には強面だった力士たちですが、検査役のいでたちは子供心には
                      学校の先生のように見えました。

                      そこに登場する202センチの巨人大内山。眼光鋭いギョロ目に、少し
                      怒っているような恐そうな大きい顔。やはり引退しても力士は力士だ、
                      と感じるさせる迫力でした。物言いの協議でも、元力士の輪から頭1つ
                      どころじゃなく、肩のあたりから抜きん出ていました。

                      同じく検査役だった元朝潮の振分親方(後の高砂)、びっくりするほど
                      濃い眉毛と巨体で仁王様と呼ばれた元横綱が、並ぶとまるで普通の青年
                      のように見える、大内山の迫力は特別でした。

                      ビデオで見る大内山の相撲は強烈な突っ張りを得意とし、外側から太い
                      腕を回すようにして手をつく仕切りは威圧感に溢れていました。

                      昭和においても2メートルを超える力士は活躍していましたが、大内山は
                      その巨体ながらバランスが取れ、足腰も柔軟でした。2メートルを超す体
                      で、近代大相撲では初めて大関になった力士です。

                      大内山といえば絶対に外せないのが、大相撲史上に残る名勝負と謳われた
                      昭和30年夏場所千秋楽、横綱栃錦との一戦です。その相撲はこちらから

                      また若乃花は関脇時代に大内山になかなか勝てず、この苦手を克服した後、
                      大関から横綱へと昇進していきました。105キロの体で、どんな巨漢力士
                      も正面から受け止める横綱相撲を取った"土俵の鬼"をしても、大内山を攻略
                      することは容易では無かったのでしょう。大内山を攻略したことにより、後の
                      "土俵の鬼"が生まれたのかもしれません。

                      当時千代の山や若乃花など、5人の力士で30升の酒が飲まれた酒宴で、
                      最も飲みっぷりが良かったのが大内山だったという伝説があります。

                      時津風部屋の後援者から「3人で飯を3升食べたらご祝儀」と言われ、
                      「1升5合は俺が責任を持つ」と言って回りを驚かせたのも大内山です。

                      "力士は凄い"を体現した力士、それが大内山でした。

                             〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

                      スローモーションビデオが無かった時代、(分解写真なるものがありましたが) 勝負検査役は畏怖される対象でした。行司を超える存在として、瞬間の勝負を 肉眼で裁く、これも"力士は凄い"と思わせるものでした。

                      やがてビデオを参考にするようになり、(これ自体は良いことです)勝負検査役 という呼び名も審判委員と変わりました。少しの寂しさがあります。



                      昭和の名大関〜久しぶりの名寄岩の話

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                        昨日の新聞のコラムで、久しぶりに名寄岩という文字を見ました。

                        懸賞金に手刀を切る、この所作を広めたのが名寄岩だったそうで、
                        土俵上の所作というものは、単純に残ったわけではなく、先人たち
                        が積み上げてきたものだと感じます。

                        名寄岩は昭和29年に引退していますので、私はまだ生まれており
                        ませんでした。現役時代を知る由も無いのですが、私が相撲に興味
                        を持った3〜4歳の頃、父親が何度も語ったのは、名寄岩の話です。

                        具体的には忘れてしまいましたが、名寄岩はとにかく凄い力士だった
                        という内容でした。テレビは当然まだ我が家には無く、ラジオで相撲
                        を聴いていた時代、それでも父親の話で、名寄岩の豪快な相撲振りは
                        伝わってきました。

                        体型は魁皇を2回り小さくしたような、固太りのアンコ型。
                        大関を陥落後、万全な体調ではないものの7年間も現役を続け、土俵
                        に登場すれば、割れんばかりの声援だったと言われます。

                        38歳で関脇に返り咲いたときは、映画化もされます。私の世代は、
                        名大関貴ノ花が大相撲史上最高の人気力士だったという意識があり
                        ますが、名寄岩登場時の声援を一度聴いてみたかったと思います。

                        173センチ、127キロ。左四つで力任せの吊りと掬い投げが得意。
                        上手が取れなければ、相手の肉をつかんで吊り上げたという「怒り金時」。
                        北海道名寄市出身の岩壁静雄、四股名の由来も人間性そのままにスト
                        レートなものでした。

                        また ”な・よ・ろ・い・わ”という音の響きも美しく、大鵬の強さととも
                        に名寄岩へのイマジネーションが、最初に感じた相撲の魅力でした。

                        今週の「天下泰平記」では、未だに破られない最多出場記録を持つ
                        大潮の話を書いていますが、40歳0ヶ月まで現役を続けた大潮と
                        同様に、名寄岩も40歳0ヶ月まで相撲を取りました。

                        稀代の人気力士で超ベテラン、その所作が今の土俵に伝えられ、残って
                        いるのも、大相撲の一つの伝統と言えるでしょう。


                        大関 名寄岩静男   生年月日 大正 3年9月27日
                                      没年月日 昭和46年1月26日

                        スタン・ハンセンが恐れた男〜横綱、千代の富士

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                          スタン・ハンセンは外国人プロレスラー最高のスーパースターでした。
                          今では信じられない、金曜夜8:00のゴールデンタイムでプロレス放送
                          が、視聴率20%を超えていた時代です。

                          ハンセンの名勝負ナンバーワンは昭和56年9月23日のアンドレ・ザ・
                          ジャイアントとの一騎打ち。ハンセンはこの試合でスーパースターの地位
                          を確立しました。ラッシャー木村の、あの「こんばんわ事件」が起こった
                          日として、プロレスファンにとっては忘れられない大会でもありました。

                          昭和56年は大相撲ファンにとっても、記憶に鮮明に残った年です。
                          初場所に関脇で初優勝した千代の富士が、横綱にまで駆け上がり、まさに
                          スーパースターとなった一年でした。

                          昭和50年に入幕した千代の富士が、三役で初めて勝ち越したのは昭和
                          55年。ケガもあって長い期間、番付が上下します。

                          この頃プロレスブームが盛り上がり始め、昭和53年に大ブレイクした
                          藤波辰巳(現:辰爾)はアントニオ猪木の後継者といわれ、その鍛え抜
                          かれた筋肉美とスピード感に溢れた試合が注目を浴びます。

                          藤波の体とそのスピードを見て、大相撲とプロレスの掛け持ちファンで
                          「千代の富士も凄いぞ」と思った人は多いでしょう。身長はほぼ同じ、
                          体重では上回り、筋肉質の体とスピードも負けてませんでした。

                          事実、後のハンセンとの対談で千代の富士は、当時プロレスからの誘い
                          があったことを述懐しています。

                          藤波よりも2歳下で、超スーパースターのタイガーマスクよりも2歳上。
                          100キロに満たない藤波・タイガーに比べれば、力士では軽量でも千代
                          の富士がはるかに力強く、絶好の素材だったことは間違いありません。
                          力道山に匹敵するものがあった、といっても過言ではないでしょう。

                          アメリカンフットボール出身で、タックルなど瞬発力を生かしたプロレス
                          をしていたハンセンは、大相撲の立合いの凄さを理解し、自分より大きな
                          体の力士のぶちかましを受け止める千代の富士はあこがれの人でした。

                          そういったことで千代の富士との対談をハンセンが熱望し、プロレス誌上
                          で実現したわけでした。

                          「あなたがプロレスラーにならなくて本当に良かったよ」
                          ハンセンの言葉がお世辞では無かったのは、いうまでもありません。

                          悪役ナンバーワン〜横綱北の湖パート2

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                            貴輪時代到来の予感で人気沸騰していた当時の大相撲に、北の湖はどこか
                            招かれざるホープという雰囲気がありました。

                            10代で入幕した力士としては珍しく、すでに150キロを超える堂々と
                            した体格をしていたのも、若手として可愛くないものでしたが、その表情
                            のふてぶてしさが決定的でした。

                            身長は179センチですからアンコ型というべきですが、胸から腹へ見事
                            に発達した上体にゼイ肉はあまりありません。

                            力士向きの胴長短足で足腰は強靭。
                            肩幅は広かったものの、二の腕の外側から背中にかけての筋肉が発達して
                            いるのが特徴。いかにも脇が堅いという体付きです。

                            この体型を生かして、巻き替えもスルリと素早く、馬力と技巧を兼ね備え
                            た独特の相撲を完成させました。

                            全盛期は170キロ近くの圧倒的な体格となり、それでいて立合いに少し
                            だけ右にずれて上手を取るような相撲を見せたため、悪役ぶりに拍車が
                            かかりました。当時北の湖が上手を取れば、ほぼ勝負アリでした。

                            若手の頃から悪役というのも珍しいことですが、どんなに強過ぎる横綱
                            でも負け始めれば、例外なく応援されるものです。

                            驚くべきことに北の湖は、この点でもパターンを外してしまいます。
                            何故かといえば、台頭してきたのが軽量・ケガのハンデを乗り越えてきた
                            千代の富士だったからです。

                            貴ノ花の引退とも重なり、貴ノ花を尊敬していた千代の富士は次のスター
                            として相撲ファンに圧倒的な支持で受け入れられ、ウルフブームが起き
                            ました。北の湖はここでも敵役となってしまいます。

                            平成17年の九州場所、年間最多勝・年間完全制覇・7連覇を達成した
                            土俵で朝青龍は涙を流します。しかしそれが感動の涙ではなく、魁皇に
                            一辺倒の声援に対する寂しさの涙だと聞いて、少しばかり落胆しました。

                            横綱ともなれば、もう外国人扱いは出来ませんし、精神面の強さも当然
                            に相撲ファンは求めます。精神面の強さも横綱の品格の一つです。

                            現役生活のほとんどすべてをアウェーの土俵で過ごした北の湖。
                            稀代の悪役スターでした。

                            横綱、北の湖 敏満   生年月日 昭和28年 5月16日 
                                           優勝24回  横綱在位63場所

                            悪役ナンバーワン〜横綱北の湖

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                              かつて、巨人・大鵬・卵焼きという言葉がありました。
                              長嶋・王のジャイアンツをテレビで見て育った世代にとっては、昨日の
                              ジャイアンツの優勝は、多少プロ野球への興味が薄れても、やはり感慨
                              深いものがあります。

                              大鵬もまた少年ファンのあこがれでした。
                              しかし大人のファンには、強すぎる横綱への反感もかなりありました。
                              それでは大鵬が悪役だったかというと、ハンサムな顔立ちと悠然とした
                              横綱らしい土俵態度から、相撲ファンから嫌われていたような記憶は
                              まったくありません。

                              今の朝青龍にしてもイメージは悪役です。
                              しかし悪役といっても朝青龍へは、外国人力士に対する遠慮のような
                              ものが相撲ファンの中にあるように感じます。
                              北の湖に比べれば、悪役としては小粒です。

                              やはり悪役ナンバーワンは、北の湖をおいて他にいないでしょう。

                              北の湖が登場したとき、時代は貴ノ花と輪島の貴輪時代でした。
                              正確にいうと、相撲ファンが貴輪時代の到来を待ちわびていた時代です。
                              昭和47年の1年間は確かに貴輪時代と呼べるもので、人気先行だった
                              貴ノ花も夏・名古屋と終盤まで優勝を争って準優勝。
                              新しい時代、プリンス貴ノ花の時代への期待は高まっていました。

                              北の湖は新入幕場所で負け越し。その後も大勝ちすることがないまま
                              番付を上げたため、相撲ファンは出来るかぎり北の湖を過小評価しよう
                              とします。貴輪時代の邪魔はさせない、という雰囲気がありました。

                              北の湖はこの頃、19歳。
                              大相撲の歴史の中で極めて珍しいパターン、若手力士のときから悪役を
                              演じる役割となりました。

                                  つづく

                              昭和の名横綱〜佐田の山 晋松

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                                第50代横綱佐田の山は、昭和40年の春に横綱に昇進。

                                現代の土俵に最も現れてほしいタイプの力士の一人です。

                                身長182センチ、体重129キロ。ゼイ肉のない、かといって変な筋肉
                                の盛り上がりもない、いかにも四股とテッポウと稽古だけで出来上がった、
                                見事にナチュラルな筋肉質の力士でした。

                                同じ横綱の大鵬・柏戸、横綱レースのライバル大関豊山など190センチ
                                近く、150キロ前後の力士たちの中で、突き押しと右四つ吊り寄りの
                                真っ向勝負。

                                最も印象に残っているのは、顔の恐さです。気難しそうな顔をした力士が
                                多かった当時の力士の中でも、抜群の力士らしい顔付きをしていました。

                                特に当時圧倒的な強さを誇った、全盛期の大鵬にはケンカ腰の表情で立ち
                                向かい、柏鵬対決とはまた違った緊張感がありました。

                                今の力士でいうと安馬を一回り肉を付けて、突き押しを荒々しく、吊りや
                                投げを力強くした感じです。

                                言い換えれば、安馬にもう少し力が付いてきて、佐田の山のような相撲が
                                取れるようになれば、横綱も目指せるでしょう。

                                引退後すぐに出羽海部屋を継ぎますが、これが原因でちょうどこの1年前
                                に元横綱千代の山の九重親方が破門覚悟の独立をしていました。

                                顔の恐さの通り、相撲協会理事長になってからも頑固一徹で協会を引っ
                                張ったものの敵も多く、理事改選のクーデターで次期理事長候補だった
                                陣幕親方が退職に追い込まれたことで、理事長を退任します。

                                陣幕の元横綱北の富士は、師匠九重の独立により出羽海一門を破門されて
                                高砂一門でしたが、かつては出羽海部屋の弟弟子。陣幕親方が一門を出て
                                から30年の歳月が経ってのことです。

                                体付きと相撲振り、そして義理・人情。
                                佐田の山は最も昭和の匂いのする力士でした。

                                横綱、佐田の山 晋松   生年月日 昭和13年 2月18日
                                             優勝6回 横綱在位19場所

                                琴桜〜その美しき四股名

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                                  私が大相撲を見るようになった頃、琴桜は三役入りを目指していた若手力士
                                  でした。最初に、その四股名の美しさが印象的で、字が持つイメージ、音の
                                  響き、相撲字で書かれたときの美しさ、本当に良い四股名だと思いました。

                                  182センチ、150キロ。骨太で重心が低く安定感があり、上半身の筋肉
                                  は大きな岩のように発達し、立合いのぶちかましは凄まじい迫力でした。
                                  柔道出身のクセが出ないように押し相撲に徹しますが、四つになってからの
                                  豪快な吊りも得意としました。

                                  柏・鵬時代、北・玉時代から、プリンス貴ノ花登場まで常に悪役のイメージ
                                  で、特に「そこまでしなくても」と思えるほどの強烈なノド輪攻めは恐い程
                                  でした。しかし性格は誠実そのもので、先輩力士にノド輪や張り手などで
                                  荒っぽい勝ち方をしたときは支度部屋へ挨拶に行っていたほどです。

                                  ノド輪攻めのときなどは、まさに鬼の形相でしたが、それも精一杯の力を
                                  振り絞る誠実さの表れだったのでしょう。その裏返し、真面目すぎて考え
                                  込んで負けることも多く遠回りしましたが、それでも昭和48年の春に桜は
                                  満開、32歳で横綱に昇進します。

                                  北の富士や貴ノ花といった「超」が付く人気力士に対して、武骨な風貌と
                                  相撲振りの琴桜がいて個性溢れる土俵が展開された、そんな時代でした。
                                  胴長で固太り、強烈なノド輪に豪快な吊り出しが記憶に残っています。

                                  しかし琴桜という四股名は記憶に残しておくだけでは、もったいない気が
                                  します。ぜひ何時か四股名を継ぐ力士が現れることを期待します。

                                  元横綱琴桜、鎌谷紀雄さんのご冥福をお祈りいたします。

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