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大相撲あの力士この技〜世紀の大誤審生んだ、羽黒岩(戸田)速攻の押し

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    昭和の大相撲をテーマにして始めた当ブログ、当初は「大相撲あの力士この技」がメインのカテゴリーでしたが、実に3年半振りの更新です。原点回帰ということで・・・。

    今回はスピード相撲の元小結羽黒岩、というよりも「戸田」の方が印象は強いですね。

    昭和42年初場所、本名の戸田で入幕した羽黒岩は当時20歳。活きの良い押し相撲で、一場所前に同じく20歳で入幕した「牛若丸」藤ノ川とともに注目されます。

    しかし「羽黒岩」よりも「戸田」の印象が強い、その決定的な理由は別にあります。それは、“あの”大鵬戦の時の四股名が戸田だったからです。昭和44年春場所2日目のことでした。

    当時、昭和以降では双葉山の69連勝に次ぐ45連勝を記録していた大鵬の連勝をストップした、というより“世紀の大誤審”の方が通りが良いかもしれません。今では当たり前の、勝負判定にビデオを使用するきっかけになった一番です。

    余談ですが、当時はスローモーションビデオというのも、まだ開発段階だったのでしょう、「只今の一番」の再生には「分解写真」が使われていました。見づらかったですね、「分解写真」。

    さてその後DVDなどで、この大鵬ー戸田戦を見る機会はありますが、実際のところ「何で見間違えるんだ」と思うほど、早い段階で戸田の足は土俵を割っています。

    などとは、今だから言えること。当時リアルタイムで見ていた者にとっては全く違うのです。戸田のぶちかましからの押しに、大鵬は一瞬大きくよろめきます。「大鵬が負けた」と本当に思いました。それは、戸田の押しの速さだからこそでしょう。

    大鵬が負けたと思い、軍配が大鵬に上がってほっとして、そして物言いの結果に愕然とし・・・。常勝大鵬、「大鵬負けろ」という言葉が流行った(?)のもこの頃でしたが、連勝に期待していた、この時だけは「大鵬負けるな」でした。

    そして世紀の大誤審を生んだ、戸田の速攻もまた忘れられません。


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    あの力士この技〜栃赤城の逆とったり

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      栃赤城が大関に近づいたのは、昭和55年春場所でした。

      大関旭国が引退し、貴ノ花が一人大関となった昭和54年九州場所、
      関脇の増位山(11勝)と前頭筆頭の栃赤城(10勝)を上げてます。

      翌昭和55年初場所、増位山と栃赤城は再び快進撃。

      特に栃赤城は中日まで勝ちっ放しで、同じく全勝の横綱三重ノ海と
      対戦します。前場所に14勝1敗で優勝している三重ノ海に唯一の
      黒星をつけていたのが栃赤城でした。

      周囲の盛り上がりとは裏腹に栃赤城は至ってクール、番付通りの結果と
      なり、三重ノ海は全勝優勝を果たします。

      この場所で増位山は12勝3敗、直近3場所を31勝で大関に昇進
      します。まさにワンチャンスを生かした昇進でした。

      栃赤城は11勝4敗、大関挑戦が初めてとはいえ、直前で増位山の例も
      あり、翌春場所への期待は高まりました。

      当時貴ノ花は30歳、新大関の増位山が31歳。25歳の栃赤城は
      変則的ではあるものの技巧派、観客を湧かせる異能力士。

      昭和55年春場所前、大関獲りへ向けての栃赤城へのインタビューで
      栃赤城は断言します。「絶対に大関は無理だ!」と。

      断言通り、6勝9敗で唯一の大関獲りのチャンスを逃します。
      以後、大関への可能性を感じさせることはありませんでした。

      しかし当時、栃赤城が土俵を最も湧かせた力士だったことは間違い
      ありません。土俵際での大逆転、とったり・逆とったりといった妙手、
      それを横綱三重ノ海・若乃花、大関貴ノ花相手に見せるのですから、
      湧かないわけはありません。

      めまぐるしい攻防が特徴だったのとは真逆の、冷めた談話。本物の
      異能力士でした。

      輪湖時代の最終盤、そして千代の富士と隆の里が化ける前夜だった
      昭和55年春場所の出来事です。


      元関脇 栃赤城 敬典   生年月日 昭和29年10月31日
                     没年月日 平成9年 8月18日


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      あの力士この技〜がぶり寄りの荒勢

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        元関脇荒勢の荒瀬英生さんが、11日亡くなられました。
        59歳という若さ、残念でなりません。

        先日ブログで取り上げた富士桜・鷲羽山とともに、昭和50年前後の
        大相撲を盛り上げた個性派力士の1人でした。

        178センチ・151キロの固太りのタイコ腹。その体を利した迫力満点の
        がぶり寄りが18番。

        琴風や琴奨菊のがぶり寄りとは少し違い、力感溢れる上半身で廻しを引き
        付け、相手を前後に揺さぶるような豪快ながぶりでした。

        不適な面構えにもみあげが似合い、野武士のイメージを漂わせていました。

        大関に近づいたときもありました。昭和52年秋場所、小結で2場所連続
        勝ち越しで東関脇で迎えたこの場所、3大関を破り11勝4敗で技能賞を
        獲得します。

        そのがぶり寄りが評価されての技能賞でしたが、野武士的イメージそのまま
        どこか勝負に淡白なところもあり、大関獲りの雰囲気はありませんでした。

        それを荒勢らしさと感じさせるのは、やはり個性が前面に出ていたからだと
        思います。

        今から30年ほど前、在籍していた大学のバレーボール部は、3月と11月
        に合宿を行なっていました。

        11月、寝泊りしていた海岸沿いの合宿所の隣に、花籠部屋の宿舎があり
        ました。朝の練習のため外に出た私は、その宿舎の2階の部屋に荒勢を見つ
        けると、「あ、荒勢だ!」と叫びました。(学生でしたから)

        荒勢はしばらく無表情で外を眺めていました。一瞬、目が合ったような、
        むしろこっちを見ていたような感じでした。あのときの荒勢の顔は、今でも
        はっきりと覚えています。

        その海岸沿いの合宿所も今では埋め立てられて市街地となり、ソフトバンク
        ホークスの本拠地ヤフードームを初め、巨大な建造物が立ち並びます。

        30年の時の流れを改めて感じます。

        荒瀬英生さんのご冥福をお祈りいたします。

        元関脇 荒勢    生年月日  昭和24年 6月 20日
                    没年月日  平成20年 8月 11日

        大相撲この技〜押しの大受

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          3日続けての「あの力士、この技」ですが、今日で23人目なのに突き押し
          の力士に関して、まだ書いたことがありませんでした。

          押し相撲の力士で誰が一番印象に残っているかというと、迷うことなく
          元大関、大受を上げたいと思います。

          審判委員として、長老格となった元大受の朝日山親方は、今でもテレビ
          でよく目にします。昭和48年名古屋場所で、史上初の三賞独占を果たして
          大関に昇進した当時の大受は、ピッカピカに輝いていました。

          大受は左右のハズとおっつけの、徹底した押し相撲でした。立合いに強烈に
          当たるタイプではなく、じわじわと、しかし強烈に押し上げる相撲でした。

          廻しを引かれれば三段目といわれ、実際に四つ相撲では話になりません
          でしたが、それでも大関にまで駆け上がりました。

          今の土俵に本格的な四つ相撲を取れる力士が少ないように、廻しを引かれ
          ると三段目というような本格的な押し相撲の力士も少ないように感じます。

          四つか突き押し、どちらかが得意にせよ、オールラウンドプレーヤー的な
          力士が増えたのは、やはり間違いないでしょう。

          大受の相撲には、股関節の柔らかさが強く印象に残っています。
          177センチ・150キロの体を、常に柔らかい股関節が支えていました。

          言い換えると、上半身が前のめりになることが見られない押し相撲です。
          引きや叩きを警戒して、押しが中途半端になることなど皆無でした。

          重心を常に股関節が支え、前のめりにならなかったのは、つまりは足が
          きちんと運べていたわけです。

          引きや叩きに強かった大受と、天下一品のいなしの技術があった現出羽海
          親方、小兵の名関脇鷲羽山との相撲は壮絶を極めました。

          大受の押しと、鷲羽山のいなしと土俵際の変化・粘り。土俵とはこんなにも
          広いものかと思うほど、攻守ところを変えること数え切れない大相撲を展開
          しました。

          押しも押したり、いなしもいなしたり。前に落ちない大受と、土俵を割らない
          鷲羽山。その土俵には、美しささえ感じられました。

          押し相撲一筋、23歳で大関に昇進した大受は、しかし首の古傷の悪化で
          在位5場所で大関陥落、27歳で無念の引退でした。今のように医療が発達
          した時代ならば、復活したかもしれませんが・・・。

          当時の名解説者である玉ノ海梅吉さんが語った、「土の匂いがする力士」と
          いう言葉は、力士を形容するコピーとして最も秀逸な作品の1つです。

          大受の真骨頂である足の運びは、体から土の匂いがするほどの猛稽古が
          あったればこそでしょう。


          元大関、大受久晃  生年月日  昭和25年 3月19日

          大相撲この技〜内掛けの増位山

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            大相撲史上、内掛けの名手といえば大関琴ヶ濱ですが、引退したのが昭和
            37年九州場所で私が2歳のとき、残念ながら鮮明な記憶はありません。

            "南海の黒ヒョウ"と呼ばれ、精悍な表情と獲物を捕えるかのような琴ヶ濱
            の内掛けとは対照的に、ケロリとした顔で決めるのが増位山でした。

            昭和40年代後半から50年代前半、シラケ世代という言葉が流行り、その
            代表格が力士でいえば増位山、芸能界では今をときめく水谷豊でした。

            昨日取り上げた鶴ヶ嶺が、三男の寺尾とは見事に似ていなかったのと同様に
            増位山もまた親子なのに、まったく似ていませんでした。

            初代大関増位山は以前力道山のくだりで書きましたが、あの力道山がヤサ
            おとこに見えるほどの、ゴツゴツとしたイメージでした。

            対してシラケ世代の増位山は、闘志はあるのか無いのかといった表情。
            そして、粋な遊び人風の二枚目力士、まさに対照的です。

            この増位山、まさか親子二代で大関になるとは、一時期は思いも寄りません
            でした。二枚目なうえ、歌手として有名でしたから。

            北の富士や琴風も確かに歌手デビューしましたし、大ヒット曲もありますが、
            デビュー当時はすでに大関という存在、そして代表曲も1曲です。

            増位山は代表曲もミリオンセラーになりましたが、それ以上にある程度の
            期間、ある程度の数をリリースした本格的な歌手でした。

            それが昭和55年初場所、当時は貴ノ花の1人大関、増位山は31歳で
            大関に昇進します。これは昨年琴光喜に破られるまで、長きにわたって
            最年長記録でした。

            幕内成績が勝率5割を切っている、たぶん唯一人の大関ですが、それは
            本当にワンチャンスを生かした昇進だったことを物語っています。

            しかし今、DVDなどで改めて増位山の相撲を見ていると、意外と力感のある
            体をしていたことに気付きます。

            中学時代は父親に入門を断られ、高校時代は水泳で鍛え、断るのなら他の
            部屋に入門するとおどして?、18歳のときに父親の三保ヶ関部屋に入門
            します。

            プレイボーイ風の顔立ちとは違って、中身は根性が座っていたのでしょう。

            力士の中で、いやプロスポーツ選手全般の中で、もっとも本格的な歌手活動
            をして、もっとも実績を残した存在だと思います。

            顔の良さと連発するヒット曲、本当に歌手に転向するのかと思ったその
            右手に握られたマイクは現在、審判部副部長として物言いの協議の結果を
            お伝えしています。


            元大関 増位山太志郎   生年月日 昭和23年 11月16日

            大相撲この技〜両差し鶴ヶ嶺

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              大相撲夏場所で目立ったことの一つに、ベテランの頑張りがありました。
              栃乃洋・出島・若の里・玉春日・玉乃島が揃って勝ち越し、土佐ノ海も健闘、
              十両では北桜の自分の型に徹した相撲が光りました。

              魁皇も名古屋で36歳になります。ケガの治療やリハビリなど医学の進歩
              もあるでしょうが、ベテランが元気です。

              昭和40年の九州場所で、14日目まで大鵬と優勝を争ったときの鶴ヶ嶺
              は36歳でした。

              そのうえ、歳よりも老けて見える風貌とそれに似つかわしいイブシ銀の
              両差しの取口。私は当時5歳でしたので、よけいにオジイちゃんっぽく
              感じられました。

              177センチ・110キロの体で、巻きかえの巧さはもちろんですが、
              二本差してからヒジを張り、大きい力士を揺さぶりながら寄り切る相撲
              は、無差別級の大相撲の凄さを最初に見せ付けてくれた力士でした。

              36歳で優勝を争ったのも凄いですが、37歳のときには敢闘賞と技能賞
              のダブル受賞の活躍。技能賞は2度もらっています。

              38歳のとき、幕内が15枚目から12枚目までに一気に削減。鶴ヶ嶺は
              その場所12枚目、突然の幕尻となります。

              当時の幕内在位の最高記録を更新中だった鶴ヶ嶺が、いきなりの十両
              陥落の瀬戸際に立たされ、11日目まで4勝7敗の大ピンチ。しかしそこ
              から4連勝、意地の勝ち越しでした。

              しかし翌場所は2勝13敗と大負け、この場所を限りで幕内力士として
              引退します。

              大相撲には大型力士がいて、アンコ型がいて、ソップ型がいて、業師が
              いる、様々な個性が存在する世界だと、最初に教えてくれた力士でした。

              関脇 鶴ヶ嶺昭男    生年月日 昭和 4年 4月26日
                             没年月日 平成18年 5月29日

              大相撲、あの力士この技〜三重ノ海の張り差し

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                久し振りに昭和の力士を書きます。最近、張り差しの立合いが多く見られ
                ます。しかし、技巧派相撲の横綱だった三重ノ海の張り差しは、一味違う
                ものでした。

                その前に稀勢の里の立合いについて質問がありましたので、お答えします。
                理想的な立合いとして例に上げた、双葉山と貴乃花の立合いを見られると
                分かりますが、2人ともに肩のラインの真下あたりに手を着いています。

                稀勢の里は肩のラインのかなり前に手を着きますが、これは重心が前に
                突っ込んでしまっているということです。それでも、番付が下位の力士に
                対しては腰を割って、肩のラインで手を着くことが多く見られます。

                腰を割るというのは、ロケットの発射台にエネルギーを貯めるのと一緒です。
                スピードで勝負する力士ならば、前の方に手を着くことも有りかもしれません
                が、稀勢の里はそのパワーを相手にぶつけてほしいと思います。

                当時幕内力士の平均体重だった貴乃花が、超巨漢の小錦と同じぐらいに
                立合いの衝撃があったと、多くの力士が語っています。

                ということで三重ノ海です。左を浅く差して、右前ミツから出し投げで
                崩しながら寄る巧さは天下一品でした。自分の型を持っていました。

                しかし当時は北の湖と輪島の黄金時代、181センチ・135キロの三重ノ海
                は巧さはあっても非力で、また同世代の大関の貴ノ花や旭国のような守り
                の粘り腰もありませんでした。

                自分の型に持ち込めなければ勝てない、三重ノ海の張り差しは、そんな
                必死さを感じさせます。何が何でも機先を制するという気迫がこもって
                いました。相手の顔を横に向かせ、左を差す流れは見事でした。

                前さばきの巧さと速攻相撲で、上半身の非力さと守りの弱さをカバーして
                横綱にまで昇進します。引退後は武蔵川部屋を興し、ご存知のように横綱
                大関を育て、ライバルで親友だった貴ノ花の二子山部屋や旭国の大島部屋
                とともに土俵を盛り上げます。

                筋力のある外国人力士の張り差しが、この頃目立ちます。
                「立合いの張り手が効きましたね」といった解説を聞くと、張り差しの
                意味が変わってきているように感じます。

                三重ノ海のような速攻相撲と違って、大型力士の張り差しなら脇は開いて
                いるはずで、そこを狙ってほしいと思います。確かに、張り手が相当効いて
                いるのでしょうが・・・。

                張り差しの立合いは見事でしたが、乱戦の中で無用な張り手で墓穴を掘る
                ことも多かった三重ノ海。しかし、誰もが予想もしなかった横綱への道を開いたのも張り手でした。その物語は、こちら・・・相撲コラム「天下泰平記」で。

                内臓疾患で遠回りした三重ノ海の、奇跡と言ってもいい感動の復活でした。

                元横綱三重ノ海   生年月日  昭和23年  2月4日

                あの力士この技〜クールな内無双、色白美男力士の二子岳も今年定年です

                0
                  約2ヶ月ぶりの、あの力士この技の更新です。

                  先場所の千秋楽、あの把瑠都が内無双を決めたのには驚きました。
                  似合っていないというのもありますが、手が届きすぎてフクラハギの
                  あたりを払っていました。

                  内無双が得意だった二子岳は、昭和42年初場所に新入幕。
                  178センチ、110キロ。業師が多かった当時の土俵でも、技能派
                  力士で鳴らしました。

                  色白の美男力士だった二子岳は、私が2番目にファンとなった力士
                  です。(1番目は先々代の宮城野親方、相撲人形と形容された元小結廣川)

                  二子岳の内無双は、子供の目には何が起こったか分からないような
                  技でした。決まった後も何事も無かったように、無表情で勝ち名乗り
                  を受ける様が、いかにも曲者といった風情がありました。

                  やはり内無双はクールに決めていただきたい決まり手です。
                  小さい力士が大きい力士を引っ繰り返して、やられた方は呆然とした表情、
                  決めた方はケロッとした顔の対照が絵になります。

                  最近は朝青龍や琴光喜といった横綱・大関も決める場面がありました。
                  もちろん、ちゃんとした決まり手ですから問題ありませんが。

                  リーチを生かせる欧州出身力士、手を使うことに慣れているモンゴル出身
                  力士にとって自然な決まり手なのかもしれません。似合ってはいませんが。

                  昭和40年代はクールという言葉が流行りましたし、またシラケ世代など
                  という言葉もありました。少し後に入幕した2代目増位山とともに、その
                  代表的存在だった二子岳はクールな格好良さを持っていました。

                  当時の時代と若者を象徴するような雰囲気に、ファンになった記憶があり
                  ます。新入幕の年、秋場所に前頭4枚目で8勝7敗、九州場所には番付運
                  良く小結に昇進したときは子供心に "ラッキー" と思いました。

                  小学校に入学した年でした。

                  その二子岳、現在の荒磯親方も今年で定年です。


                  元小結二子岳  生年月日  昭和18年 11月15日

                  あの力士この技〜上手出し投げ、ナンバーワンは初代栃東

                  0
                    今年引退した大関栃東の父親、元関脇栃東の玉ノ井親方は昭和40
                    年代の大相撲の土俵を代表する業師でした。

                    177センチ、115キロ。二代目栃東とは身長は3センチほどしか
                    違いませんが、体重は40キロ以上も軽く、典型的な技能派力士。

                    名人横綱栃錦の春日野親方のもと、昭和42年春場所、前年の九州
                    場所に引退した小兵横綱栃ノ海と入れ替わるように入幕。栃ノ海と
                    栃東は身長・体重がほぼ同じでした。

                    しかし、いくらアンコ型力士が少ない時代とはいえ、110キロ台
                    で大関以上になるのは極めて珍しいことでした。

                    当時は北の富士・玉乃島(後の玉の海)・琴桜が大関に昇進した
                    ばかり。彼らのライバル、清国・麒麟児(後の大麒麟)・長谷川に
                    若手の前の山が大関レースに火花を散らしていました。

                    栃東といえば、殊勲・技能のダブル受賞4回という記録が有名です。
                    この4回は、昭和43年夏場所からの11場所で記録されています。
                    栃東は一気に大関候補に名乗りを上げます。

                    前さばきが実に巧く、左四つに組んでの右前ミツの取り方とアゴを
                    引く型も素晴らしく、そこから繰り出される上手出し投げの切れ味
                    は、その後並ぶ者無しと言ってもいいでしょう。

                    栃東の出し投げは、出して崩してから攻めるのではなく、決める技
                    です。相手は不格好に足をバタつかせながら、転がりました。この
                    頃の栃東の技の冴えは、小兵横綱栃ノ海を超えるのではないかとさえ
                    思わせるものでした。

                    大関を期待され、その足掛かりをつかみかけた瞬間、病魔に襲われ
                    ます。昭和45年春場所、関脇だった栃東は千秋楽に惜しくも負け
                    越し、翌場所は全休。以後体調が戻るまでに時間が掛かり過ぎ、
                    やがてヒザも痛め、全盛期の勢いは取り戻せませんでした。

                    この昭和45年春場所は、大鵬・北の富士・玉の海の3横綱の総成績
                    が実に40勝5敗、横綱リーグ以外で落とした星が3人でたった2個。
                    ここから1年続いた、濃密な北・玉・大の並立時代に栃東は下位に
                    低迷します。

                    4回のダブル受賞時、大鵬・北の富士・玉の海の誰かに勝っていた
                    栃東が、この時期に上位にいなかったのは残念でした。

                    絶好調時の病気といえば、「天下泰平記」に書いた三重ノ海とも共通
                    しますが、克服し横綱まで昇進した三重ノ海とは異なり、栃東には
                    本当の意味での復活はありませんでした。

                    それでも乱戦の昭和47年初場所、11勝4敗で優勝します。千秋楽
                    に大関清国を破り、大関琴桜・関脇長谷川に1差をつけるという、
                    若手時代の大関レースのかつてのライバル達を抑えての優勝でした。

                    上手出し投げだけでなく速攻も素晴らしく、5場所連続休場で進退が
                    かかった大鵬を一方的に寄り切った、昭和43年秋場所初日の相撲は、
                    ついに大横綱大鵬もこれまでかと思わせるほどの鮮烈な寄り身でした。

                    大鵬の45連勝がスタートするのは、その翌日からです。


                    関脇 栃東知頼    生年月日 昭和19年9月3日

                    あの力士この技〜やぐら投げの禊鳳はルー大柴に似ていた

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                      今年、再ブレイクしたルー大柴の濃い顔立ちを見ていて、禊鳳を
                      思い出しました。

                      ギョロ目に濃い眉で、しかめっ面的容貌。がっちりした体に胸毛
                      が印象的な力士でした。ケガのため25歳の若さで引退し、廃業
                      しましたので、年配の大相撲ファンでも記憶にない方が多いかも
                      しれません。

                      昭和41年秋場所に、22歳で新入幕した禊鳳の幕内デビューは
                      強烈なものでした。

                      その話の前に・・・、禊鳳は十両までは本名の佐々木の四股名で
                      取っていました。入幕するとき、当時幼稚園児だった私は佐々木
                      から禊鳳に四股名が変わるのを、すごく残念に思った記憶があり
                      ます。野生的なイメージのあった佐々木が、幕内に上がったから
                      といって何か気取った四股名になったように感じたのでしょう。

                      しかし不思議なのは、佐々木を十両時代から知っていたのだから、
                      それだけ注目の若手力士だったことになります。

                      新入幕の場所で禊鳳は12勝3敗、敢闘賞を受賞します。
                      181センチ、120キロの筋肉質の体で、やぐら投げを得意と
                      したパワーの相撲を取りました。

                      同年代で、だいたい同時期に入幕した栃東・陸奥嵐・二子岳と
                      いった、三役まで上がった力士たちより一回り大きい、当時の
                      平幕の力士としては平均以上の体格だったと思います。

                      さて、さらに強烈だったのは2場所目の昭和41年九州場所です。
                      やぐら投げという荒業と、インパクトのある外見で注目の禊鳳は、
                      前頭2枚目まで一気に番付を上げ、初日にいきなり横綱栃ノ海と
                      対戦します。

                      禊鳳は、この小兵の業師横綱栃ノ海を力でねじ伏せます。ちなみに
                      栃ノ海はこの場所限りで引退しました。

                      そして2日目には大関の豊山を破り、3日目の対戦は横綱柏戸。
                      188センチ、140キロの柏戸は禊鳳同様に筋肉質の体で、相撲
                      は力感に溢れる展開となりました。がっぷり四つになって、廻しの
                      引き付け合い。

                      あまりに強烈な引き付け合いのため、両者の体はほとんど直立状態
                      に近いものになりました。吊り合いなどが見られない最近の大相撲
                      ではお目に掛かれないような、両者ともに爪先立ちになるほどの力の
                      入った展開となり、最後は禊鳳が勢いで勝ってしまいます。

                      ”凄い”の一言でした。とんでもない力士が現れた、どこまで勝ち進む
                      のかと思わせるものでした。佐々木から禊鳳に四股名は変わっても、
                      その野生的な魅力はそのままに、本当に一気に出世するのだろうと
                      感じさせました。

                      しかし・・・、4日目からは上位陣にまったく歯が立たず、3連勝
                      から連敗続き、結局4勝11敗に終わります。

                      このときの前頭2枚目が禊鳳の最高位でした。

                      その後は7勝や8勝といった地味な成績が多く、特に活躍すること
                      も無く、ケガもあって幕内在位14場所で引退します。

                      あの鮮烈なデビューは何だったのか。

                      それでも、やぐら投げの大技と柏戸の巨体を見事に引き付けた豪快
                      な取り口は忘れられません。


                      前頭2枚目 禊鳳英二  生年月日 昭和18年 12月10日

                      究極のソップ型、吊り出しの明武谷

                      0
                        吊りといえば明武谷、明武谷といえば吊りと形容されるほどの吊り出しの
                        使い手、そして189センチ・113キロの究極のソップ型力士。

                        今の角界でソップ型といえば安馬ぐらいでしょうか。あとは十両の白馬と
                        保志光、モンゴル出身力士ばかりです。

                        しかし彼等をソップ型とはあまり呼びません。どちらかというと頭をつけ、
                        食い下がるタイプです。本来のソップ型は骨太で筋骨隆々、豪快に相手を
                        振り回すような相撲を取る力士のことです。

                        そういう意味でソップ型という言葉自体、死語に近くなっています。

                        昭和34年名古屋で新入幕の明武谷は、高見山登場以前の幕内最長身力士
                        でした。皮下脂肪が少なく腹筋が見事に割れている筋肉は、匹敵する力士
                        を探せば、千代の富士しか思い浮かびません。

                        昭和36年秋と昭和40年秋の2度、優勝決定戦に進出した明武谷は有力
                        な大関候補でした。それほど関脇在位が多くなかったのに大関を期待せれ
                        た一番の理由は王者大鵬に対する相撲振りでした。

                        明武谷は大鵬が関脇以下で最も苦手とした力士の一人ですが、その勝ち方
                        がまた強烈で、真正面から四つに組んでの豪快な勝ちっぷりでした。

                        柔らかいうえに腰が重い、いかにも吊りにくい大鵬の巨体を振り回すの
                        ですから痛快です。

                        女性ファンが多いことでも有名。美男力士といっても力士の場合は日本的
                        美男がほとんどで、角界のアラン・ドロン霧島でさえ純日本的です。

                        明武谷は彫りが深く目鼻立ちがくっきりした、力士としては本当に珍しい
                        タイプの美男でした。雰囲気はゴダイゴのベーシストだったスティーブに
                        よく似ていました。(古くて分かりづらくてすみません)

                        引退後は審判委員を務めていましたが、キリスト教入信をきっかけに廃業。
                        ちなみによく似ていたスティーブも、キリスト教布教のため後日ゴダイゴを
                        脱退しています。

                        安念山(美空ひばりの御ひいき)・青ノ里(双葉山の愛弟子)・明武谷と
                        ソップ型力士には大物喰いで個性的な人気力士が多かったのも特徴です。

                        今後ソップ型力士が大相撲の土俵に現れる可能性は、、あるのでしょうか。


                        関脇、明武谷 清   生年月日 昭和12年 4月29日

                        大相撲、あの力士この技〜小兵力士の代表、鷲羽山

                        0
                          先日、NHK福岡の夕方のニュース番組に九州場所担当部長として、
                          出羽海親方が出演していました。

                          当然九州場所のPRのための出演ですが、現役の頃と変わらぬ強面の
                          うえ頑固オヤジ風の口調が、いかにも鷲羽山という感じでした。

                          身長174センチ、体重110キロ。
                          昭和48年夏場所に新入幕の鷲羽山は、昭和40年代の力士の中でも
                          もっとも小さかった力士の一人です。

                          大相撲の迫力が減った一番の原因は、力士の稽古不足と、それに伴う
                          体重増加が上げられています。

                          力士の体が引き締まっていた時代の、その中でも小兵力士だった鷲羽山。
                          しかし、小兵といっても相撲内容は堂々としたものでした。

                          闘志が顔に出る力士で、時間一杯になってからの表情が一段と恐くなり、
                          また立合いの当たりも強く、体の大小とは無関係、立合いに変化するのは
                          ほとんど記憶にありません。

                          当たってからの突き押しも強烈で、いなしの巧さも抜群。
                          前さばきも良く、差してからの寄り、下手投げや掬い投げもあり、すべて
                          の技がスピード豊かに繰り出されました。

                          相撲のスタイルは今の力士でいうと朝青龍にそっくりです。
                          朝青龍の体を押し固めたような、小さな体で中身の濃いものを持っていた
                          のが鷲羽山でした。

                          足腰の強靭さと持ち前の闘志で、土俵際での粘りが真骨頂。
                          それも逆転技ではなく、攻め返すところに鷲羽山らしさがありました。

                          観客を沸かせる相撲を取る、いわゆる銭の取れる力士。
                          有名だった激しい稽古の積み重ねで、36歳まで現役を務めました。

                          さて、九州場所は銭の取れる相撲がどれだけ見られるでしょうか。


                          関脇、鷲羽山 佳員  生年月日 昭和24年 4月2日

                          大相撲、あの力士この技〜下手投げの輪島

                          0
                            学生相撲出身力士は相撲が淡白だ、というのが最近のイメージですが、
                            それでは横綱にまで上り詰めた輪島はどんな力士だったのでしょう。

                            輪島が初土俵を踏んだのは昭和45年の初場所。横綱を期待されながら
                            柏鵬の壁に跳ね返され、学生相撲出身初の大関豊山が引退したのが昭和
                            43年の秋です。果たして横綱になれるのか?が輪島のテーマでした。

                            真面目な雰囲気の豊山に比べ、輪島は正反対でした。

                            輪島が番付を上がってきた昭和45〜47年、社会はいわゆる学生運動
                            の色が濃い、フォークソングの時代でした。

                            無精ヒゲを伸ばし、不機嫌そうな表情で背中を丸めて歩く姿は、若者の
                            反骨の時代を象徴していたような存在だったという気がします。
                            小豆色の廻しも当時では珍しいものでした。

                            下手投げ主体の力士は大成しない。
                            これは若手時代の輪島に対する決まり文句でした。しかし輪島は徹底して
                            下手投げ主体の相撲を取ります。

                            左下手を引いて、少し斜に構えて右から絞るスタイルは、先達の教えに
                            反抗する風でもありました。

                            寄りとセットの場合が多い上手投げと違い、どうしても下手投げは引き
                            ながらの技、右から絞って焦れる相手をおびき寄せるようにして仕留める、
                            確かに王道とはいえないものでした。

                            かつてシラケ世代という言葉がありましたが、下手投げを決めて、背中
                            を丸め気味に勝ち名乗りを受ける輪島は、シラケ世代の空気感を漂わせ
                            ていました。そして”黄金の左”が代名詞となります。

                            昭和48年名古屋で横綱に昇進した輪島は、小兵を巧くさばき、がっぷり
                            四つでも取れる正統派の相撲に徐々に変わっていきます。社会も反骨と
                            シラケの時代を通り過ぎます。

                            気が付けば廻しの色も小豆色から金色へ、そして無精ヒゲもいつの間にか
                            消えていました。

                            学生相撲出身力士は淡白だというイメージは輪島にはありません。
                            北の湖や貴ノ花と展開した名勝負の多くは長い相撲となり、内容も大相撲
                            と呼ぶにふさわしいものでした。

                            角界を離れた後、38歳という年齢でプロレスラーとしてデビューした
                            輪島は、周囲の冷ややかな視線の中で意外な活躍を見せ、力士の肉体の
                            屈強さをプロレスファンだけでなく世間に示しました。

                            186センチ、130キロのやや細めの体で横綱を張った輪島の、最後の
                            反骨でした。


                            横綱、輪島 大士    生年月日 昭和23年 1月11日



                            善戦マン蔵間の戦い〜あの力士、この技

                            0
                              蔵間ほど大関を期待された力士はいないのではないか、と断言しても
                              いい位の人気だった、ような気がします。関脇在位1場所なのに。

                              気がするというのは、蔵間が若手力士として注目された時代とは、大相撲
                              史上最高の人気力士(これは断言しても大丈夫)の貴ノ花と、その貴ノ花
                              と人気を二分した二代目若乃花がいたからです。

                              何か時間とともに、蔵間の人気振りが増幅されているかもしれないと思い
                              ながらも、やはり二人に劣らない歴史的な人気力士といっていいでしょう。

                              ”あの力士、この技”と題して、蔵間のこの技は何かと問われ、善戦です
                              と答えれば、間違いだと言われそうですが、あえて書いています。

                              蔵間の善戦マンのニックネームは、188センチ・135キロの恵まれた
                              体格なのに攻めが遅いことへの皮肉を込めた呼び名でした。

                              新入幕の昭和51年名古屋の頃から数年間は、1歳年下の横綱北の湖の
                              まさに全盛時代、驚異的に強かったときに、蔵間は本当に毎回善戦したの
                              です。それも常に左四つがっぷりで、真っ向から攻め合いました。

                              正直すぎると言う人もいるでしょうし、実際に1度も北の湖には勝てずに
                              終わったので、それも当然でしょう。しかし一番強い頃の北の湖と手に汗
                              握る攻防を、何度も見せてくれた蔵間。

                              蔵間ー北の湖は「大相撲になりました」のアナウンスを何回も相撲ファン
                              に聞かせたはずです。北の湖が最も悪役だった時代の、美男の人気力士。
                              もう少し足が短ければ、大関も実現したかもしれません。

                              正直過ぎましたが、勇敢な攻めだったと今も思います。そして現在の土俵
                              に、こんな力士がいてほしい、と思わせる力士でした。

                              引退後のスポーツコメンテイター振りも、弁舌の爽やかさに加えユーモア
                              もあり、相変わらずの二枚目振りと相まって、衰えない人気。

                              外見だけではなく、本当の実力を兼ね備えたコメンテイターとして、
                              善戦マンを超えて、メディアの世界の大関クラスになった、その全盛
                              での早過ぎる死でした。


                              関脇、蔵間 竜也   生年月日  昭和27年12月16日
                                           没年月日  平成 7年 1月26日






                              大相撲、あの力士この技〜吊り落としの陸奥嵐

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                                吊り落としといえば、最近では先場所の安馬対豪栄道戦、完璧に後ろを
                                取って決めましたが、これはかつて寺尾の張り手に怒った千代の富士が、
                                豪快に吊り落としたときのスタイルと一緒でした。

                                朝青龍の吊り落としもすぐに思い浮かびますが、これは両差しになって
                                から、さらに下手を深く引き直し、相手の斜め後ろ気味のところから
                                吊り落とすものです。

                                一見豪快な荒業のようですが、正直ピンとこないのです。それは後ろを
                                制したり、両差しからだったりと、完全に有利な体勢で決めているから
                                です。まったく五分の四つ身の体勢で、真正面に吊り落としてこそ、
                                豪快な荒業といえるでしょう。

                                ”東北の暴れん坊”陸奥嵐の吊り落としは本物の荒業でした。

                                昭和42年春場所新入幕、いきなり13勝を上げます。177センチ、
                                115キロは当時としても大きい方ではありませんでしたが、相手を
                                組みとめると、ほぼ真上に吊り上げるのが得意技。

                                この体勢で、本当にいきなりという感じで正面に放り投げてしまうの
                                ですから、豪快無比です。若手の頃から少し老け顔で、いつも不機嫌
                                そうな表情は、まさに暴れん坊と呼ぶにふさわしいものでした。

                                どんな相手にでも、とにかく捕まえにいくので上位陣には決して強くは
                                ありませんでした。それでもはるかに大きい横綱大鵬・柏戸を破った一番
                                は、横から攻めるようなことはせず真っ向勝負、左から掬って右上手から
                                捻るようにして見事に倒しました。

                                横綱相手でもスタイルを貫く相撲は、荒業と風貌だけでなく心意気も暴れ
                                ん坊そのもの。小さくても鍛え抜かれた体で関脇を張ります。

                                吊り落としをテーマにしましたが、陸奥嵐の河津掛けも強烈で、後ろに
                                つかれた絶体絶命の体勢から強引に左足を掛け、踏ん張るところを右から
                                真後ろに突き倒すように決め、やられた相手は派手な弧を描いて裏返しに
                                なりました。

                                陸奥嵐という四股名と相撲振りがピタリとはまった、そんな力士でした。


                                関脇、陸奥嵐 幸雄   生年月日 昭和18年 1月12日
                                               没年月日 平成14年 7月30日

                                大相撲、あの力士この技〜網打ちの豊山

                                0
                                  元大関豊山といえば先々代の時津風親方であり、前相撲協会理事長。
                                  つまり、元双津竜の先代時津風や北の海理事長の前任者です。また学生
                                  相撲出身者で初めて、大関にまでなった力士としても知られています。

                                  学生相撲出身者は勝ち負けにこだわり過ぎると、このブログでも書いて
                                  いますが、昭和36年春に初土俵を踏んだ豊山は、切ないほどに実直な
                                  相撲を取りました。

                                  昭和36年九州に十両で全勝優勝を果たし入幕を決めますが、この場所は
                                  柏鵬が新横綱として激しく幕内優勝を争い、大鵬が優勝します。以後豊山
                                  にとって、3歳下の大鵬と1歳下の柏戸は厚い壁となります。

                                  189センチ・147キロの体は柏鵬にも引けを取らず、強烈な突っ張り
                                  と力強い四つ相撲は、どこまで強いなるか計り知れないと言われました。

                                  新入幕の昭和37年初場所でいきなり12勝3敗、1年後の昭和38年
                                  初場所後には大関に昇進。直前3場所の勝ち星は37勝を上げます。

                                  この正攻法の大関の ”この技”を逆転技の網打ちというと本当に失礼な話
                                  ですが、昭和40年頃には攻め込まれることが多くなっていたのです。
                                  原因は腰痛でした。切ないほどに実直と表現した所以も、ここにあります。

                                  時代劇役者のような顔立ち、気品のある土俵マナー、どこか憂いを漂わ
                                  せた雰囲気。柏鵬を超えられない現実と腰痛。これほど応援したくなる
                                  要素を持った大関はそうはいません。

                                  だからこそ網打ちで窮地を脱した場面を憶えているのでしょう、大相撲
                                  ファンの安堵した歓声と一緒に。

                                  豊山と真逆の雰囲気、負けず嫌いが顔にもろに出ている佐田の山との横綱
                                  レースに先を越された後、豊山は横綱どころか二ケタ勝利も危ないという
                                  状況になります。

                                  「もう横綱は無理だろうが、せめて1度は優勝してほしい」
                                  大相撲ファンも少しあきらめ気味になっていた昭和43年春場所、当時
                                  30歳になっていた豊山に絶好のチャンスが訪れます。

                                  初日から奮闘の豊山は千秋楽までに12勝2敗。並んでいたのは小結の
                                  麒麟児と平幕の若浪でした。

                                  直近6場所で4回も負け越していた(当時は連続3場所負け越しで陥落)豊山
                                  にとって、ここで優勝を逃せばもう次は無いという大相撲ファンの予感が、
                                  千秋楽の緊迫感をさらに高めます。

                                  豊山は清国に押し出され、一人白星だった若浪が平幕優勝。

                                  千秋楽の土俵に寂寥感が漂いました。
                                  豊山の引退はこの3場所後のことです。


                                  大関、豊山 勝男   生年月日 昭和12年 8月18日

                                  大相撲、あの力士この技〜寄り倒しの柏戸

                                  0
                                    中澤潔氏が「朝まで生テレビ」に続いて、「たかじんのそこまで言って
                                    委員会」にも出演していました。話は北の湖理事長のトップとしての資質
                                    にまで及び、「朝生」よりも突っ込んだ内容だったと感じられました。

                                    さて「朝生」においての中澤氏の「寄り倒しが減った」、これを受けての
                                    松浪健四郎氏の「打っちゃりも減った」の発言は、今の大相撲の相撲内容
                                    の核心を突いたものと思われます。

                                    寄り倒しという決まり手でまず頭に浮かぶのは、大鵬と一時代を築いた
                                    横綱柏戸です。同じく、もっとも打っちゃりを食った力士も柏戸という
                                    印象が残っています。

                                    大鵬の優勝32回に対して優勝5回の柏戸が、人気の面で大鵬を上回って
                                    いたのは、日本人の判官びいきの気質だと言うのはフェアではありません。
                                    ファンは柏戸の相撲に、本当の力士らしさを見ていたように思います。

                                    188センチ、139キロと大鵬に引けを取らない体で、対戦成績も病気
                                    になる前まではまったくの互角。しかし序盤での取りこぼしがあって優勝
                                    を逃す、それが柏戸でした。

                                    破壊力抜群の寄りは「角界のサラブレッド」と呼ばれ、前廻しを引き付け、
                                    腰をぶつけるようにして豪快に寄り立てる迫力満点の相撲で、土俵際も
                                    そのスピードを落とさず体を浴びせ、寄り倒しました。

                                    現在、叩き込みの多さとともに目立つのが腰を引いた四つ身です。吊りが
                                    減ったのも、その現れでしょう。腰をぶつけるようにした寄り合い、吊り
                                    合いが少なくなりました。

                                    あえて言えば、勇敢な取り口が減ったということです。

                                    大鵬を上回る攻撃力を持ちながら、筋肉が固く、大鵬のような守備力の
                                    無い柏戸は、徹底的して自分の相撲を取りました。その筋肉の感じは体型
                                    こそ違いますが二代目栃東に似ていて、栃東がそうであったようにケガに
                                    泣かされ続けました。

                                    その相撲はケガとともに打っちゃられる危険とも隣り合わせで、足腰の
                                    柔軟な麒麟児(後の大関大麒麟)にはイヤというほど苦杯を舐めさせられ
                                    ます。ライバル大鵬の弟弟子の麒麟児に敗れることは、もっとも避ける
                                    べきことだったはずです。

                                    それでも柏戸は ”勇敢な”スタイルを貫きました。

                                    豪快に寄り倒しても、見事に打っちゃられても、どちらにしても大歓声が
                                    湧きました。優勝回数にこれほどの差が付いても、柏鵬時代と呼ばれたの
                                    は、それだけ大相撲ファンに愛されていた証拠だったと、今思えます。

                                    横綱、柏戸 剛   生年月日 昭和13年11月29日        
                                                没年月日 平成 8年12月 8日 

                                    大相撲、あの力士この技〜張り手のフックの花

                                    0
                                      今の相撲界で敢闘力士といえば高見盛と北桜でしょうか。
                                      秋場所も熱戦を何番も見せてくれましたが、残念ながら敢闘賞候補に
                                      なるような成績ではありません。

                                      逆に言うと、幕内上位で敢闘賞候補の常連になるような、闘志を表に
                                      出す力士が少ないように感じます。

                                      昭和の大相撲には福の花がいました。
                                      敢闘賞受賞7回、殊勲と技能賞は1度も受賞していません。

                                      昭和40年秋場所、25歳で新入幕。
                                      身長183センチ、体重135キロの筋肉質の体で、表情は常に気迫に
                                      溢れた、気風の良い力士でした。

                                      相撲は張り手を交えた突っ張りと右四つからの吊り寄り、がむしゃらな
                                      攻めの相撲でしたが、左四つになるとまったく相撲を取れません。

                                      しかしその激しい張り手と、左四つになったときの懸命な抵抗の微妙な
                                      コントラストが、福の花の魅力でした。

                                      7回の敢闘賞受賞ですが、2回目の受賞のときで29歳11ヶ月。
                                      30歳代になっても元気一杯の相撲、7回目の敢闘賞は34歳のときで、
                                      前頭10枚目ながら12日目に横綱の輪島を破る大活躍でした。

                                      当時は横綱・大関に張り手を使うと、取組後に挨拶をしに行くような
                                      時代でしたが、福の花の張り手には何故か爽やかささえ感じました。

                                      張り手といえば、かつて板井が大乃国を土俵中央で一発KOしたことが
                                      ありました。大関から横綱に上がる頃の元気な大乃国に6連勝している
                                      のですから異常です。

                                      この板井の張り手というのは、手のひらの硬いところを相手のアゴに
                                      打ちつけるもので、鈍い音とともに大乃国はヒザから崩れ落ちました。
                                      しかし千代の富士相手には恐くて(?)、1度も使っていません。

                                      福の花の張り手はバチンバチンと小気味いい音を立て、”フックの花”と
                                      呼ぶにふさわしい、まさに華のある張り手でした。板井とは対照的で、
                                      1発で相手にダメージを与えるような張り手ではありません。

                                      一服の清涼剤のようなその張り手に、敢闘賞が7回贈られました。

                                      元関脇、福の花 孝一  生年月日 昭和15年 7月1日

                                      大相撲、あの力士この技〜突き落としの藤ノ川

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                                        現在の大相撲で最も拍手を受ける力士といえば、やはり高見盛でしょうか。
                                        花形力士という言い回しも最近あまり聞きませんが、個性豊かな花形力士
                                        が大勢いるほど、土俵は魅力的になるというものです。

                                        今牛若と呼ばれた藤ノ川は極めつけの花形力士でした。

                                        昭和41年九州場所、20歳の若さで入幕。連続勝ち越しで前頭の上位と
                                        なった3場所目の昭和42年春場所は横綱佐田の山を破るなど12勝3敗
                                        の大活躍。殊勲・技能賞を受賞、今牛若ブームが起こります。

                                        身長178センチ、体重108キロ。
                                        肩幅が広くゼイ肉がまったく無い体は、数字以上に細く見えたものです。

                                        ソップ型の力士も多かった当時(花形力士同様、ソップ型という言葉も
                                        ほとんど聞かなくなりました)の大相撲においても、ずば抜けて細かった
                                        記憶があります。

                                        とにかく速くて激しい突き押しで、相手力士を圧倒しました。
                                        顔つきも精悍そのもの。自分よりも大きな相手に、ほとんどケンカを売って
                                        いるような表情で立ち向かっていました。

                                        横綱・大関相手には、この突き押しから強烈な突き落とし。
                                        そして「どうだ」と言わんばかりに仁王立ちになって、四つん這いになった
                                        役力士を見下ろす姿は颯爽としたものでした。

                                        今の土俵でよく見られる大型力士の突き落とし(突き落とすために突っ張っ
                                        ているような)とは一味も二味も違う、見ている方に説得力を感じさせる
                                        突き落としでした。

                                        ブームの一つの頂点は昭和42年夏場所4日目、関脇となった藤ノ川は王者
                                        大鵬と対戦します。大鵬は藤ノ川を組みとめ磐石の態勢で寄り立て土俵際、
                                        勝負あったかというところで藤ノ川は俵伝いにスルリと体を入れ替えます。

                                        大鵬はおもわず土俵の外へ、まさに今牛若の面目躍如でした。
                                        しかし土俵の外の砂を、藤ノ川の左足がわずかに掃いたと大鵬本人が物言い
                                        をつけ、大変な騒ぎとなりました。

                                        結局、軍配は大鵬へ。翌日の新聞で、藤ノ川の左足に大きな丸印の付いた
                                        決定的瞬間の写真がのっていたのを、今でもはっきりと憶えています。
                                        この場所藤ノ川は、惜しくも7勝8敗。

                                        突き押しと突き落としで暴れまくった藤ノ川でしたが、ケガのため26歳の
                                        若さで引退します。幕内在位31場所を、今牛若のように駆け抜けました。

                                        しかし時折りテレビで見る伊勢ノ海親方は意外とがっちりとしていて、細く
                                        見えてもやはり力士はデカイなと、改めて思います。

                                        元関脇、藤ノ川 豪人   生年月日 昭和21年 9月26日

                                        大相撲、あの力士この技〜大鵬の上手捻り

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                                          秋場所に4回目の優勝を果たした白鵬が、インタビューで大鵬の優勝回数
                                          を意識した発言をしていました。朝青龍にしても同様ですが、やはり大鵬
                                          は特別な存在のようです。

                                          時代の違いもあって、最強の横綱を語ることは極めて難しいことですが、
                                          優勝32回の大鵬が、年6場所制となったこの50年の間で、最強の力士
                                          だということに異論は少ないでしょう。

                                          バランスの取れた体型と柔らかい体質は白鵬に似ていましたが、それは
                                          横綱昇進当時、まだスマートな体の頃のことです。

                                          全盛期の大鵬は身長187センチで体重153キロですが、とにかく腰が
                                          重い、お尻が本当に大きな力士でした。見た目だけでも、負けにくい体を
                                          していました。

                                          美男力士として登場した頃は、大鵬の出番になると女湯がガラガラになる
                                          といわれましたが、やがて全盛期になると「大鵬負けろ〜」の声が飛び交う
                                          ようになります。

                                          その大鵬の勝ち方を象徴していたのが、上手捻りでした。

                                          前さばきが良く、かいなの返しが抜群に巧く、丸太のようなかいなを返さ
                                          れれば、相手力士はもうそれだけで身動きが出来ない状態となります。

                                          左四つ右上手の充分な体勢で、寄りや投げではなく、今では珍しくなった
                                          上手捻りで決めることが多かったのですが、それは捻るというよりも、
                                          身動き出来なくなった相手を土俵に ”置く”という方がふさわしいものでした。

                                          その巨体で両差しになることも多く、このときの掬い投げもまた ”置く”
                                          ような感じでした。この頃あまりの大鵬の強さに相撲人気が、一時落ち
                                          込みます。

                                          昭和40年代前半まさに無敵だった大鵬の、その全盛期が4横綱3大関、
                                          さらに三役には8人の大関候補(後の3横綱2大関)がひしめいていた
                                          時代だったこと、これが一番凄いことです。

                                          横綱、大鵬 幸喜    生年月日  昭和15年 5月29日
                                                =====================

                                          上記の内容につきまして、私が「上手捻り」と認識していたものが、
                                          実際には下手側からの「すくい投げ」を決まり手として記録されていた
                                          ことが多かったことを、最近資料にて確認しました。上手捻りとすくい投げ
                                          の複合技という意識の中で、誤認しておりました。今後は記憶に頼らず、
                                          事実確認いたしますので、よろしくお願いします。
                                                     
                                                    10月25日 ブログ管理者 Ejima

                                          大相撲、あの力士この技〜肩すかしの龍虎

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                                            引き技が大好き、という相撲ファンはそんなに多くはいないでしょう。
                                            いきなりの叩き込みで勝負が決まれば、ガックリと力が抜けてしまいます。

                                            昭和40年代の大相撲には今より小兵力士、軽量力士がたくさんいました。
                                            彼らが巨漢力士を一瞬の変化で倒すと、ファンは大喜びという場面は多く
                                            記憶に残っています。

                                            横綱北の富士の ”黄金の引き足”というのもありました。
                                            このネーミングには、守備力に若干の難があったことへの多少の皮肉と
                                            本当に見事な引き足だったことの両方が含まれていました。

                                            それでも大きな体の力士が安易に引き技を出せば、当時でも喜ぶファンは
                                            あまりいなかったでしょう。

                                            186センチ、132キロという立派な体で得意技が肩すかし、それでも
                                            大喝采という力士がいました。北の富士と同期入門の龍虎です。

                                            昭和43年春に入幕したとき、龍虎はすでに27歳になっていました。
                                            均整のとれた大型力士で、とにかく男前。大鵬や北の富士も美男横綱
                                            でしたが、龍虎は派手で濃い顔立ちの美男力士でした。

                                            そして新入幕場所でのいきなりの大活躍。
                                            気持ち良いほどの回転鋭い突っ張りと、思い切りの良い肩すかし。
                                            この取り口が龍虎の派手な顔立ちに、ピッタリとはまりました。

                                            この場所、千秋楽まで優勝の可能性を残しての11勝4敗で敢闘賞。
                                            江戸っ子力士の粋な雰囲気と、気風の良い相撲でスター力士となりました。

                                            出世が遅かっただけあって四つ身になると強くはありませんでしたが、
                                            昭和44年春には12勝3敗で殊勲・敢闘賞を獲得。優勝した大関琴桜に
                                            12日目に勝ち、終盤戦で優勝争いの単独トップに立つ大活躍。

                                            昭和45年春には新小結で勝越し。
                                            大負けもしましたが大勝ちもする、相撲振り同様に成績も派手でした。

                                            そして昭和46年九州、30歳で左アキレス腱断裂。幕下まで落ちながら
                                            昭和50年初場所、34歳で小結に返り咲く感動のドラマ。

                                            引退後はご存知のように俳優として活躍。
                                            暴れん坊将軍での北島三郎率いる、め組の火消し役は当たり役。
                                            松平健にも引けを取らない男っぷりを見せました。

                                            今、肩すかしを引いて大歓声など・・・、ちょっと考えられないですね。

                                            小結、龍虎 勢朋   生年月日 昭和16年 1月 9日

                                            大相撲、あの力士この技〜貴ノ花の吊り寄り

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                                              元大関貴ノ花の人気の高さを今さらながら考えてみると、その果敢な攻めに
                                              あったといえるでしょう。

                                              貴ノ花にはサーカス相撲のイメージがありますが、それはどんな相手にも
                                              真っ向から組んで吊り寄りで攻めるため、攻守が激しく入れ替わり、よって
                                              土俵際でモツレルことも多かったわけです。

                                              大横綱大鵬との対戦が心に残ります。

                                              貴ノ花が最初に大鵬を破ったのは昭和45年秋場所。
                                              貴ノ花は弱冠20歳の新小結、殊勲賞で三賞を初受賞した場所です。

                                              大熱戦のすえ、182センチ、106キロの貴ノ花が、187センチ、
                                              153キロの大鵬を吊り寄りで圧倒します。

                                              白鵬がよく大鵬に似ているといわれますが、当時の大鵬は白鵬をさらに腰を
                                              重くした感じで、非常に吊りにくい力士でした。

                                              そして昭和46年初場所、悲運が貴ノ花を襲います。
                                              この一番はやはり大熱戦、貴ノ花は得意の吊り寄りで大鵬を追い詰め、
                                              ふたたびの殊勲の星は目の前でした。

                                              しかしこの時、貴ノ花はそのまま寄らず、土俵際で大鵬を高々と吊り上げ
                                              ようとします。そして大鵬の巨体が吊り上げられた瞬間、貴ノ花の左足首が
                                              奇妙な角度で曲がり、そして崩れ落ちました。

                                              大関昇進後、度々の故障により横綱の夢はかないませんでしたが、この時の
                                              ケガの後遺症が、貴ノ花の土俵人生に大きく影を落としたのは事実です。

                                              軽量の貴ノ花にとって、巨漢の横綱北の湖との対戦は、判官びいきの日本人
                                              の心情をくすぐるといわれましたが、あのケガが無かったらと、つい考えて
                                              しまいます。そのためか、貴ノ花には常に悲壮感が漂っていました。

                                              貴ノ花は自身の相撲を不器用だと述懐していますが、この不器用を冒険心と
                                              変換することが出来るでしょう。

                                              どんな強敵相手でも常に吊り寄りで果敢に攻め込む、それは冒険心豊かな
                                              勇敢な力士だったということです。

                                              貴ノ花の人気が何故にあれほどまでに高く、そして長期間にわたったかの、
                                              わたしはこの ”勇敢さ”にあったと思います。

                                              元大関、貴ノ花 利彰   生年月日 昭和25年 2月19日
                                                             没年月日 平成17年 5月30日

                                              大相撲、あの力士この技〜北の富士の速攻

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                                                昨年の九州場所中日、この日は地元福岡県出身の女優黒木瞳がゲスト。
                                                「初めて大相撲を生で見たときの感想は?」
                                                大相撲ファンで知られる黒木瞳にアナウンサーが質問しました。

                                                「お相撲さんの体って、テレビで見るより綺麗だなあと思いました」
                                                「その綺麗な力士たちの中でも最も美しいといわれたのが、ここにいる
                                                 北の富士さんです」と、アナウンサー。

                                                すると解説席の北の富士はさらりと
                                                「まあ30年も経てば、ただのおじさんだけどねえ」
                                                ”最も美しい力士”の部分は、まったく否定しませんでした。

                                                自他共に認める最も美しい力士、それが横綱北の富士です。
                                                容姿の格好良さもさることながら、相撲振りの美しさが印象に残ります。
                                                とにかく華麗で、派手な取り口の横綱でした。

                                                北の富士の相撲は徹底した速攻相撲。
                                                右上手を浅く引き、左のかいなも浅めに返し、一気の出足で攻め込みます。
                                                相手が投げや吊りにくれば鮮やかな外掛け、そして寄りながらの強烈な
                                                上手投げ、寄りを残そうとすれば大きく体を開いての豪快な上手投げ。

                                                ライバルの玉の海は、その四つ身の美しさを一幅の絵と形容されましたが、
                                                北の富士は動きの美しさ、一幅の絵ではなく一編の動画の美しさでした。

                                                当時、辛口解説者の玉の海梅吉に「横綱の重みを感じさせない」と酷評されても
                                                「自分のスタイルには自信を持っていた」と北の富士は後に語っています。
                                                185センチ、135キロの体でしたが足が長く、腰高な面をカバーするための
                                                理に適った速攻相撲でした。

                                                攻め一辺倒の相撲は一旦残されると大熱戦の大相撲、新しい波の貴ノ花や
                                                輪島とは激戦の連続で、しばしば物言いがつくスリリングな展開となり、
                                                この世代抗争は、必ず中日に組まれる黄金カードとなりました。

                                                大相撲が本当にメジャーなプロスポーツだった昭和40年代、若手時代の
                                                大横綱大鵬への挑戦、鮮烈な北玉時代の名勝負、驚異的人気の大関貴ノ花
                                                との大熱戦、常に土俵の中心には北の富士がいました。

                                                緑色の締め込みがよく似合い、肩の高さから塩をまく独特のスタイルは、
                                                弟子の千代の富士、千代大海によって継承されています。
                                                歌手としても有名、私が買った3枚目のレコードが北の富士のネオン無情
                                                でした。今から40年ほど前の話です。

                                                横綱 北の富士勝昭  生年月日 昭和17年 3月28日

                                                大相撲、あの力士この技〜打っ棄りの若浪

                                                0
                                                  打っ棄りは、昨今減ってしまった決まり手の代表的存在でしょう。
                                                  ここ数年で思い浮かぶ使い手といえば元大関の霧島あたりですが、それでも
                                                  引退してもう10年以上経っています。

                                                  最近では、コマーシャルの琴欧洲がフリーマーケットで”売っちゃり”を
                                                  見せたぐらいですか。

                                                  少年時代、最初に相撲の面白さを感じたのは打っ棄りでした。
                                                  迫力とスリル、そして美しさを感じたのも打っ棄りでした。

                                                  当時、分解写真(スローモーションという技術がまだ無かった時代です)を
                                                  見ながら解説者(神風さんか玉の海さん)が、「まだ胸が合ってますねえ」
                                                  とか「ここで体が割れましたねえ」などと言うのをドキドキして聞いていた
                                                  ものです。

                                                  若浪の得意手は吊りと打っ棄り。
                                                  178センチ、103キロの細身。しかし体は筋骨隆々、それも決して器具
                                                  を使っては作ることの出来ないナチュラルな筋肉を持っていました。

                                                  若浪の打っ棄りは、まさに唯一無二のものです。
                                                  普通の打っ棄りは相手の体を割らせるため横に振りますが、若浪のそれは
                                                  強靭な足腰を支点にして、後方に放り投げるように決めるのです。

                                                  高見山のような巨漢に決めれば壮観。テレビで見ている方も、5センチほど
                                                  腰が浮きそうな感覚です。その強烈な映像は、今も目に焼き付いています。

                                                  濃いもみあげに胸毛、濃い眉に切れ長の目、口元はいつも若干への字に結び
                                                  いかにも頑固者といった風貌。仕事に厳しい大工の棟梁といった雰囲気で、
                                                  何の仕事をしても職人的存在になったのではないかと思わせるものでした。

                                                  酒豪で歌が上手く、会心の一番では思わず表情が崩れてしまう純情さ。
                                                  実像も、イメージそのものだったような気がします。

                                                  昭和43年春場所に平幕優勝。この場所の優勝争いは、ここ50年でも5本
                                                  の指に入るほど印象に残っていますが、その理由はまたの機会に。

                                                  元小結、若浪 順   生年月日 昭和16年 3月 1日
                                                               没年月日 平成19年 4月16日

                                                  大相撲、あの力士この技〜けたぐりの海乃山

                                                  0
                                                    けたぐりといえば朝青龍が稀勢の里を倒したときに、横綱の品格を問われた
                                                    ことが記憶に新しい決まり手です。横綱が繰り出す技として相応しいかどう
                                                    かは置いといて、最近使い手が少なくなった決まり手ではありました。

                                                    ということで、あの力士この技の第1回は昭和の曲者、海乃山です。
                                                    昭和36年初場所新入幕、引退は昭和45年初場所ですので、柏・鵬時代と
                                                    重なるような力士生活だったわけです。

                                                    最高位は関脇。立合い一瞬のけたぐりが十八番。
                                                    大型の大鵬・柏戸が小さな海乃山に転がされるのは、爽快でした。

                                                    当時は立合いが中腰から手付きをしない時代、立合いの変化は今より不利
                                                    な状況にあったと思われます。それでも見事に決まりました。

                                                    しかし海乃山は大物をけたぐりで倒しても、いつも表情は不機嫌そのもの、
                                                    太いマユ毛を中央に引き寄せるように眉間にシワを寄せ、口はへの字に結び
                                                    しかめっ面はトレードマーク。

                                                    よく解説者が「今の立合いの引きは当たりが効いていました」と言うことが
                                                    ありますが、海乃山は悪びれることなく、当たる振りしてスルリとスリ抜け
                                                    るように足を飛ばし、そしてクールな土俵態度。二桁勝利と二桁負越しが
                                                    異常に多いツラ相撲がクールな印象をさらに強くさせました。

                                                    海乃山には何故かアウトローのイメージがあって、もちろん、けたぐりと
                                                    アウトローには何の関係もありませんが、三度笠の旅姿に爪楊枝をくわえての
                                                    時代劇が間違いなく似合ったでしょう。

                                                    少し後の小兵力士といえば、徹底的に食い下がる旭国や突っ張りといなし
                                                    が巧い鷲羽山のような敢闘相撲が代表的ですが、海乃山には小兵力士的な
                                                    一生懸命さを極力表に出さない相撲を取っていた記憶があります。

                                                    身長172センチ、体重120キロで関脇を張り、三賞を6回受賞は見事。
                                                    勝負度胸抜群の力士でした。

                                                    海乃山 勇   生年月日 昭和15年 6月28日
                                                               没年月日 平成 9年 7月 5日

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